2019年8月18日

ED38の終焉 その2

▲秩父鉄道デハ107 広瀬川原 1988-11

秩父鉄道デハ100形は電化開業時からの木造車を更新すべく、1950年に登場。
30両の大所帯を誇り一大勢力になった彼らも、旧小田急の800形(←デハ1800形)登場と共に急速にテリトリーが浸食され、1988年には全車が放逐されました。
▲三峰口 1980-5

さて、引き続き広瀬川原を回ります。
引退直後のデハ100らが墓標のように佇む姿を撮り回るのはうーむな趣味ですが、指を咥えて見ている訳にもいきません。

架線のない側線にはデハ107や少数派・クハ67らの姿。
クハ67はクハニ20形が多数派だった制御車の中で、4両だけ残ったクハ60形の1両でした。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

さよなら運転に充当され、最後の花道を飾ったデハ101編成。
一見手入れは良くくたびれた印象はありませんが、種車は古いですからやはり限界だったのでしょうか。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

このデハ600形を始め、現役世代は黄色に茶帯とちょっと引いてしまう出立です。
当時はC58の運転が始まった頃で、客車はまだ43系。
何年か振りに旧型客車に触れて嬉しくなり、しばし車内を徘徊しますがやはり目が行くのはスハフ32です。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

メインはED381でしたが、思った以上の副産物に満足しながら基地を後にしました。
このままお陀仏になると思い込んでいた同機はその後整備され、三峰口の「車両公園」に保存される運びとなり、取り敢えず一安心。

しかし、所詮は蒸機列車利用客への「人寄せパンダ」に過ぎなかったのか、他の展示車を含め全てが、今度は本当にスクラップに。
一事業者に全てを委ねることにも問題があると思いますが、鉄道車両の保存に対するこの国の認識の浅薄さには改めてガッカリするほかありませんでした。
▲樋口 1988-11

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