2020年1月26日

最果て鉄路を歩く

▲標津線 厚床-奥行臼 1985-9
 
「乗り潰し」にはあまり拘らず、時間があれば終点まで往復といった程度の管理人ですが、北海道だけは例外でした。

周遊券と道内夜行急行をフル活用、1次・2次廃止線を最優先に片っ端から乗り回し、完乗とは行かないまでも80年代に存在した路線の95%を踏破しています。体力が余っていた学生時代ならではですが、乗るだけでも楽しい魅力的な路線がそれだけ多数あったということでしょう。
▲瀬棚線 瀬棚 1985-9

▲富内線 富内 1985-9

1985年のことでしたか、「北海道鉄道100景」という薄い写真集にあった、根釧台地の真ん中を行くキハ40のカットに吸い込まれました。眺めるうちに同じ場所を無性に歩きたくなり、なけなしの休暇を叩いて遠路出向いたのは標津線(標茶-根室標津及び厚床-中標津116.9㎞)。

とにかく写真集と同じ場所に立ってみようと、厚床から別海までの24㎞を歩くことにしました。
▲奥行臼付近 1985-9

千歳空港から夜行急行「まりも」を乗り継いで勇躍厚床に降り立ちますが、ドンヨリと今にも泣き出しそうな暗い空。写真集と同じ場所を歩くイメージは萎縮しますが、気を取り直して線路端を歩き始めます。
沿線には牧草地以外何もなく、彼方にサイロが見えるだけでした。
▲いずれも厚床-奥行臼 1985-9

24㎞の中間駅は奥行臼の1駅のみ、1日4本の列車。
風以外に、聞こえてくる音はなし。
いかにも北海道らしいですが、途中から脚が痛くなってきました。

奥行臼まで辿り着き、ここから列車に乗ろうかと思いましたが、次の列車まではまだ3時間以上あり、しばらく駅前をウロチョロしながら迷います。
▲いずれも奥行臼 1985-9

やはり、「ここまで来たからには・・・」と初志貫徹を選択です。
しかし脚は痛いわ天気は悪いわ、しかも次列車の発車時刻が迫って来て「地平線を遠くに眺め、ノンビリと歩く」という当初の目論見は無残にも崩れました。
▲いずれも奥行臼-別海 1985-9

この時は未乗だった富内線(鵡川-日高町82.5㎞、1986年廃止)や瀬棚線(国縫-瀬棚48.4㎞、1987年廃止)にも乗ろうと無理極まりない行程を組んでいます。

半死半生で別海駅まで辿り着いた後はそのまま取って返し、翌日めでたくこの2路線の踏破を果たしました。
▲鵡川 1985-9

▲富内線は途中で真っ暗に いずれも日高町 1985-9

▲奇岩「三本杉岩」は瀬棚線の名所でした いずれも瀬棚 1985-9

2020年1月17日

眠れる名作の発掘 その5

▲茨城交通茨城線 石塚 1966-5

1960年代後半まで存在したにも拘らず、あまり記録されていない路線の筆頭格と言えば、茨城交通茨城線の大学前-御前山間ではないでしょうか。
車両基地が手前の上水戸にあり、当時は敢えて奥地まで乗る必要がなかったからだと思いますが、それにしても少ない。

車両の方は「私鉄車両めぐり」を始め、ほぼ紹介され尽くした感がある一方で駅舎や駅風景、特に末端部の石塚-御前山間(8.6㎞)は頓と見掛けません。
▲こちらも殆ど見掛けません 御前山ではどんな切符を売っていたのか?

・・・という訳で、今回は上水戸から先、末端区間ではありませんがこの2駅の記録をアップしてみました。

まずはこちら、石塚(いしつか)駅。
石塚は開業時の終着駅で、立派な駅舎や交換設備がありました。
湊鉄道出自の元ガソリンカー・ケハ2もいますが既に休車だったようです。
▲石塚 1961-12
 
こちらは石塚以遠の廃線を控えた頃で、心なしか上の写真より構内がガランとして寂れているように見えます。ケハの塗装はブルー+クリームからのやや野暮ったい塗分けに変わっていました。発車を待つケハ300形は旧国鉄キハ07です。
▲いずれも石塚 1966-5
 
こちらは藤井駅。
民家のような駅舎内では子どもらが遊び、奥にはニワトリ小屋が見えます。
こんな小さな駅にも駅員さんがいて、列車交換をしていました。日々、どんな乗降風景が繰り返されていたのかと妄想してしまいます。
▲いずれも藤井 1961-12
 
水浜線とのジャンクション、上水戸駅。
広大な構内を持ち、ケハに加えて区間運転の電車や大洗行も行き交っていました。

この上水戸駅も、車両写真は雑誌などで見掛けますが、駅舎内や構内配線が良く分かる記録ということになると、未だにお目にかかれていません。
▲いずれも上水戸 1961-12

▲丸ゴシックのような字体が愉快な駅名票 那珂西 1961-12

2020年1月8日

秋の片上鉄道

▲同和鉱業片上鉄道キハ312 周匝-美作飯岡 1989-10

波状攻撃的にアップしてきた片上線ですが、当時のフィルムを見直してみると、よくもまあ何度も通ったものだと半ば呆れてしまいます。

1989年秋のこと、下津井電鉄を訪問した翌日、例によって明け方から出動開始。
先ずは前回の訪問で強く印象に残っていた苦木に向かいます。

ここで入線してくる1レを狙うも名物の川霧で視界は真っ白、列車に近寄って撮るしかありません。辺りには民家が散在するだけの山里の風情ですが、発車が近付くにつれ通学生が集まって来ました。
右下の獣道のようなのが「駅前通り」。駅へのアプローチはこれだけです。
苦木駅舎。
小ぢんまりながら良くまとまった好ましい建物です。
線路側に正面入口があるのも妙ですが、清水・天瀬両駅と同じ仕様の建物をこの地に建てた結果でしょうか。
▲いずれも苦木 1989-10
 
霧は晴れる気配がなく、線路伝いにてくてくと歩くことにしました。キハ312を道路際で安直にやり過ごします。
▲苦木-備前矢田 1989-10
 
駅舎との組み合わせを再度狙って備前塩田へ。
ここで粘っているうちに、少しずつ視界が開けてきました。
備前塩田駅舎。
1984年まで有人駅で、「片上型」の三角屋根が印象的な駅舎を構えています。
▲いずれも備前塩田 1989-10
 
ここからほど近い第一吉井川橋梁は当線一の長さ(355m)です。
▲備前塩田-備前福田 1989-10
 
さて、ここまで来たからには周匝で下車、「茶臼山俯瞰」をしない訳には行きません。
来る度に往復4時間の山登りとは何とも酔狂ですが、俯瞰ポイントのない当線、つい登ってしまうのでした。

しかし予想どおり、中途半端な霧に覆われてしまい何ともうーむな画しかできません。
▲遠望のカットは落第点でした いずれも周匝-美作飯岡 1989-10
 
仕方なくこの一本で下山、線路際で構えることにします。
土手に咲くコスモスを強引にフレームに入れ、微妙な構図で。

通学列車のキハ303+801コンビがやって来ました。しかし相変わらずのドンヨリ空で辺りは暗くなる一方、折り返しの2連を撮って打ち止めとしました。
▲いずれも周匝-美作飯岡 1989-10
 
周匝駅舎。
こちらも「片上型」ながら、備前塩田より屋根の傾斜がきつい意匠です。
▲周匝 1989-10
 
因みに今回も旧国鉄キハ07の702には会えず仕舞い。
702がいなくても沿線風景や駅舎群が補って余りある役割を果たしてはいますが、こうなればもう意地・・・とばかりに訪問に拍車が掛かることになりました。
▲苦木 1989-10

2020年1月2日

今年も宜しくお願い致します

▲長野電鉄モハ1501 信濃川田-綿内 1992-11

いつも小ブログをご覧頂き、ありがとうございます。
倦怠期や休止期もありましたが、「デンシャ」にカメラを向け始めて40余年が経ちました。

40周年の節目だった2014年のこと、溜まりに溜まったフィルムのデータ化という気が遠くなるような作業を思い立ち、並行して始めてみたのが小ブログでありました。

開設から3年半、多くの方に支えられながら何とかここまで続けることができました。
改めて御礼申し上げます。
▲同和鉱業片上鉄道キハ801+303 益原 1990-8

2019年、特に後半は色々なことが同時多発的に起きてしまいましたが、そんな中でも「超」細々とながら続けられたのは、「鉄分」の効用と皆様の応援のお蔭に他なりません。

昨秋の台風19号被害からの復旧はまだ道半ばというより3割程度。
年々甚大化・広域化する自然災害への対処は、半年或いは年単位での時間が必要になってくるのでしょう。
▲子どもの頃から馴染みだった橋も、まだこんなです 2019-12
 
▲多くの災害ボランティアに助けられました 2019-11 

一時期は諸々のことに追われてパニック状態になってしまい鉄活動も忘却の彼方、小ブログの無期限中止も考えました。しかし、長年続けてきた「鉄分補給」が途絶えると生体エネルギーも弱くなるようで(笑)、やはり切っても切れない縁でした。
▲地方私鉄ばかりでなく、たまには国鉄(JR)取り上げます 上:1975-1 下:1978-4
 
▲もちろん大手私鉄もいきます 上:1974-5 下:1977-5
 
・・・という訳で相変わらずスローな更新になりそうですが、今年も小ブログを宜しくお願い致します。
▲新潟交通クハ47 燕 1990-9
▲別府鉄道ハフ7 別府港 1982-9