2020年3月27日

眠れる名作の発掘 その7

▲京福電鉄デナ510 元田中 1977年頃
 
叡電のポール時代は憧れでしたが、ポール時代には寸分の差で間に合わず地団駄を踏んだ思い出があります。

叡電と言えば象徴的な存在であるデナ21・121が先ず思い浮かびますが、この頃は管理人の最も好きなデンシャの一つ、旧阪神デナ500形も第一線で活躍中でした。
細面の車体にグリーン基調の塗色、楕円形の車番銘板、そして何よりポールが良く似合い阪神時代とは全く違った魅力を放ちます。
デナをやり過ごした京都市電が通過。
鈴なりの乗客を見ると、トラム見直しの機運がもう少し早ければと思わざるを得ません。
▲いずれも元田中 1977年頃
 
叡電のもう一つの魅力は沿線風景。
市街地が途切れたと思いきや、急に山深い雰囲気になる二ノ瀬から貴船口辺りに惹かれ、何度か通う機会がありました。

デナ500形はブレーキの関係で二軒茶屋から先へは行けませんでしたが、ここを力行する姿はさぞかし素晴らしいだろうとしばし妄想しました。
▲市原-二ノ瀬 1990-8
 
▲貴船口 1990-8

2020年3月18日

工場地帯の17m国電

▲南武線クモハ11270+クハ16007 川崎新町-浜川崎 1980-5

南武線浜川崎支線は住宅や工場が狭苦しく建て込んでいる中を走り、少し視界が開けたと思ったところで終点・浜川崎に呆気なく到着。
沿線風景は殺風景ながら、辛うじて17m国電時代に間に合った数少ない路線で、何度か通う機会がありました。
▲クモハ11248 浜川崎 1980-5
 
左右に建造物が迫ってくる中で、僅かに「引き」があり道路際からデンシャの全体を見渡せたのは川崎新町。工場地帯らしく、高圧線や特大の架線柱が林立する中を潜り抜けて行きます。
▲いずれも川崎新町-浜川崎 1980-8
 
アングルは限られますが、ここから浜川崎までは並行する貨物線のEF58やEF15も手軽に狙える楽しい区間でした。
▲川崎新町-浜川崎 1980-5
 
逆光線で捉えてみると、殺風景な画も少し見られるようになりました。
▲いずれも川崎新町-浜川崎 1980-5
 
こちらは浜川崎で昼寝中のED16。南武線用としては終焉間近い頃です。

特急牽引機として鳴らしたEF60501も、少しくたびれたご様子。
▲いずれも浜川崎 1980-5 

夕闇迫る中、この日は朝夕しか動かない鶴見線・大川支線へ足を伸ばしてみました。
▲武蔵白石-大川 1980-5 

引退間近な1980年冬、ネグラであった中原電車区を訪れる機会がありました。
▲いずれも中原電車区 1980-12

4両の仲間はこの後間もない1980年冬、お別れイベントなどもなく至極ひっそりと姿を消して行きました。営業線に最後まで残った大川支線のクモハ12は、両運が幸いして閑散時間帯用に白羽の矢が立ち本線に復活、1993年まで大車輪の活躍を見せます。
▲川崎新町-浜川崎 1980-8

2020年3月10日

「メリーベル」見参  

▲下津井電鉄2000系 下津井 1989-10
 
広い敷地のあった車庫に「遊園地のようなアトラクションが出来た」と聞きつけて、片上鉄道の道すがら立ち寄ったのが下電。
主力のモハ1001が落書き電車になってからというもの、すっかり足が遠のいてしまいましたが、デビューしたばかりのメリーベルこと2000系の初見参を兼ねての訪問です。

電車たちを見た途端に写欲が失せ、僅かに撮ったリバーサルの記録は既に記事にしましたが( こちら)今回はモノクロを中心にアップしてみます。
▲下津井 1989-10
 
メルヘン調に改装された児島駅を見るや早くもうーむな心境ですが、めげずにまずは鷲羽山まで乗車です。
こちらは、赤白の下電塗装から緑一色のフジカラー広告電車になってしまったモハ103+クハ24。鷲羽山の駅舎は跡形もなく消え、敷地だけがガランと空いていました。

1980年夏の盛りにここを訪れ、当駅でしばし涼んだ時は大きな駅舎という印象でしたが、なくなってみるとこんなに小さかったっけ、とちょっと不思議な気がします。
待合所代わりのモハ110の車体は、半端に浮いているような危なっかしい場所に建っています。
▲いずれも鷲羽山 1989-10
 
ここから下津井駅まで撮り歩くことしました。
▲鷲羽山-琴海 1989-10
 
モハ1001は1972年の部分廃止後、クハ23を自社改造して誕生した電車。
離れ小島路線となった後は日中時間帯の主役として廃線まで活躍しました。
▲東下津井-下津井 1989-10
 
▲落書きを消してみました いずれも東下津井-下津井 1989-10
 
モハ1001をしばらくやり過ごしていると、いきなり回送でやって来た2000系。
1988年の瀬戸大橋開業に合わせ、アルナ工機が当時の最新技術を導入して製作、下電では27年振りの新造車です。

しかし、彼と落書き電車、そしてフジカラー2連という総勢ではやはり遊園地のデンシャにしか見えません。
▲いずれも東下津井-下津井 1989-10
東下津井駅。
鷲羽山や琴海など開業以来の駅舎が次々に消えていく中、最後まで残った木造駅舎でロケに使われたりもしました。
▲いずれも東下津井 1989-10
 
ラッシュ対応のモハ102+クハ22は変わらぬ位置にいました。
この前年に中間のサハ2が離脱した後は殆ど任務がなかったようで、翌年には正式に廃車になっています。
▲下津井 1989-10

▲サハ現役の頃 1980-9 下津井
 
メリーベルを近くで観察。
下電での活躍は僅か2年半で、一時は三岐北勢線での再就職も取り沙汰されたようですが、改造費が嵩むことから結局実現はしませんでした。
▲下津井 1989-10
 
車庫のある広い構内の一角に巨大なビニールハウスのような建造物があり、中には喫茶店のような設備が見え、近くにエンドレスの線路が敷かれています。

下松工業高校から借り受けたサドルタンクが観光客を乗せてこの上を走る演出、しかし平日のせいでしょうか、人の気配が全くなく早々に退散するしかありませんでした。
▲いずれも下津井 1989-10
 
瀬戸大橋観光をテコに、再起を図った下電。
しかしその目論見が実を結ぶことはなく、華々しい雰囲気の中で一瞬だけ咲いた徒花に終わってしまいました。エンドレスレールの上を果たして何人の観光客が乗ったのでしょうか。

廃線後はほぼ全てのデンシャが保管され、今なおボランティア有志による保存活動によって往年の姿を留めているのは喜ばしい限りです。
▲東下津井-下津井 1980-9

2020年3月1日

切符から見えてくる風景

▲京福電鉄モハ251 諏訪間-京善 2000-3
 
以前、静鉄秋葉線の記録をアップしましたが(→ その1 その2)、最終日には廃線記念の「しおり」が配布されていました。

恐らくこの手の記念グッズとしては最古の部類で、まして無料配布のしおりとなると先駆的でした。同年、やはり静鉄の静岡市内線が廃止されていますが、その際も同様のしおりが作られています。
▲写真入りは当時としては希少でした

因みに切符がついた最初の「廃止記念乗車券」はN電こと京都市電北野線、2番目は西大寺鉄道でした。
▲デザインも秀逸
 
さて、昭和30年代後半は地方私鉄の「廃線ブーム」の黒い足音がひたひたと近付きつつある頃で、直後に襲来した高度成長時代と共に一気に加速。まるで奈落の底へ落ちて行くかのように、いつ終わるとも知れない廃線の嵐が吹き荒れました。
▲1969年に姿を消した上田丸子電鉄丸子線 八日堂 1963-6

高度成長と共に消えて行った路線をランダムに書き連ねてみると・・・

1960年・・・仙台鉄道  山鹿温泉鉄道  一畑電鉄広瀬線
1961年・・・秋保電鉄  九十九里鉄道  船木鉄道   上田丸子電鉄西丸子線  三重交通神都線  京都市電北野線(N電)
1962年・・・草軽電鉄  静岡鉄道秋葉線  同静岡市内線  西大寺鉄道  山梨交通  宮崎交通  北陸鉄道粟津線・連絡線  南薩鉄道万世線
1963年・・・伊豆箱根鉄道軌道線  琴平参宮電鉄 
1964年・・・尾道鉄道  遠州鉄道奥山線  荒尾市電  防石鉄道   熊延鉄道  松本電鉄浅間線  三重交通松阪線

▲一枚の紙切れから当時の沿線風景が広がります
 
1965年・・・北陸鉄道片山津線  南薩鉄道知覧線  一畑電鉄立久恵線  大分交通宇佐参宮線
1966年・・・淡路交通  秋田市電  大分交通国東線  茨城交通水浜線・茨城線
1967年・・・日の丸自動車(法勝寺電鉄線)  北陸鉄道金沢市内線  井笠鉄道矢掛線・神辺線  呉市電 
1968年・・・東野鉄道  頚城鉄道  沼尻鉄道  仙北鉄道  拓殖鉄道  寿都鉄道  天塩炭鉱鉄道  京福電鉄丸岡線  豊橋鉄道田口線 
1969年・・・花巻電鉄鉛線  秋田中央交通  上田丸子電鉄丸子線  定山渓鉄道  江若鉄道  大阪市電
1970年・・・静岡鉄道駿遠線  山形交通尾花沢線  山陽電気軌道  尺別鉄道  雄別鉄道  羽幌炭鉱鉄道 
※全廃前提の休止、一部廃止を含む

・・・とまあ、思い付いたものだけでも次々に出てきてしまい、とても書き切れません。
これに専用線や森林鉄道、北海道の簡易軌道などが加わると途轍もない数字になってくるでしょう。

▲デンシャばかりでなく、日々繰り返された乗降風景を夢想

廃止理由は災害・炭鉱の閉山・過疎化と様々で、全てが高度成長と、それと共にやって来たモータリゼーションのせいではありませんが、大方は関わっているのではないでしょうか。

これだけ矢継早に廃線になっているにも関わらず、記念切符やしおり(愛好会など非公式な発行を除く)が作られたのは半分弱といったところでしょうか。
廃線があまりにも日常的になり、あえて記念するようなイベントではなかったのかも知れません。
▲職員がこれらを作るときの心情は如何ばかりか
 
こちらは時代が下って70年代以降。
越後交通や北恵那鉄道など、辛うじて「チョイ見」が出来たきりで一期一会に終った路線、山形・庄内・尾小屋など寸分の差で間に合わず臍を噛んだ路線が幾つもありました。

廃線の嵐はまだ一向に収まってはいませんでしたが、沿線住民に見送られながら最期を迎えるシーンが多く見られるようになってきました。
▲山形・庄内の両社は久保田久雄さんの名作が絵柄に
 
▲一期一会だった路線・その1 北恵那鉄道 いずれも中津町 1976-8
 
▲その2は越後交通 上:下長岡  下:長岡 いずれも1974-8
 
▲筑波線は何度か機会がありました 上:樺穂 1987-3 下:岩瀬 1986-1
 
こちらは車両の「廃止記念」。
嚆矢となったのは東武鉄道から蒸機が引退した1966年の記念イベントで、ピーコック+54形電車3連のさよなら列車が花道を飾りました。
▲当時としては最高の発行額でした
 
さて、現在。
一形式のデンシャが引退するだけでもうお祭り騒ぎで、路線もろとも立て続けに消滅していった1960年代とはまさに隔世の感があります。

記念切符の方も、一大ブームとなった1970-80年代に比べると随分大人しくはなりましたが、それでも流行りの硬券が人気なのか、「転バイヤー」が暗躍するお蔭か、どこも即日完売だそうで。
▲最近のは絵柄が安直な気がします
 
▲走り去った野上電鉄 幡川-重根 1990-8