2020年6月26日

借宿前の春霞 その1

▲鹿島鉄道キハ602 借宿前-巴川 1991-2

1991年早春のこと、雑誌の非電化私鉄特集だったか鹿島鉄道KR500形デビューの記事を見つけました。中小ローカルの完全な新車とあって久々に喜ばしいニュースの一方、「在来車もKR形と同色に変更」とのうーむな内容も。

既に元加越能のキハ430形・432が変更完了との件を見てこれは急がねばと即断、早速その週末に出動です。

▲浜-玉造町 1991-2

▲借宿前-巴川 1991-2

朝イチの特急「ひたち」を奮発して石岡へ、先ずは目映い朝陽を浴びて機関区に佇むキハらを見て回ることにします。当時の陣容は主力のキハ600形・430形に混じって僅かながら朝夕に道産子の運用も残っていました。

先ずはこちら、主目的の現行色キハ431。
加越能鉄道が1957年に発注した同線最後の新車で、旧関東鉄道を経て入線しました。
ワンマン化やオリジナルの前面窓が小型化されている以外はほぼ原型のままです。
旧国鉄キハ07のキハ600形。
ドアが非貫通に改造されており、1986年の前回訪問時と随分印象が違いますが、この後朱・クリームの塗分けが逆になりちょっと無粋になってしまいました。
「カバさん」ことDD901の後継、DD902は関東鉄道時代の新造車です。
相方のDD13171は同タイプながらこちらは国鉄OB。
▲いずれも石岡 1991-2

夕張や三井芦別からのキハ700系列は4両が健在ですが、側面には巨大なサンスポの広告が入ってしまいました。
▲いずれも石岡 1991-2

さて鹿島鉄道初の新車、KR形と初対面です。
そして新装なったキハ432。
最早431とは別物で、どこから見てもビミョーなカラーリングです。
こりゃ撮る気が失せるな・・・などと考え込んでいると、現行色の431が動き出すや、嬉しいことにそのまま5番ホームへ入線です。迷わずこれに乗り込んで、撮影ポイントを物色することにしました。
▲いずれも石岡 1991-2

・・・とここで枚数がいってしまいました。
次回に続きます。
▲借宿前-巴川 1991-2

2020年6月17日

眠れる名作の発掘 その8

▲大井川鉄道モハ302 金谷 撮影年不明

「電車博物館」と称された地方私鉄はいくつかありましたが、管理人世代だと断然「東の弘南、西の琴電」となるでしょうか。

特に琴電は開業時からの自社オリジナル車に加え、大手私鉄はもちろん中小路線からも数多くのデンシャが集まり、しかも彼らを長く使い続けてきたという点で特筆されるでしょう。

多彩な電車が活躍した点では大井川鉄道も同じですが、1970年代までは旧国電や社形が数多く在籍。中でも、地の利もあってか飯田線からはお役御免になった社形が多く嫁いできました。
▲琴電20形は近鉄OB 塩屋-房前 1989-2

▲ご存知ミスター琴電 高田 1989-2

▲こちらは弘南。旧身延と武蔵野の出会い 新石川 1986-8

「後世に残したい鉄道風景」を主眼とした本シリーズ、以下のカットはどれも電車が大写し過ぎて「鉄道風景」の範疇からは外れてしまいます。
しかし、今回は被写体の希少性(&もちろん管理人の好み)に乗じて強行アップをしたいと思います。

まずはこちら、大正時代の国鉄通勤車の代表格・モハ1が都落ちしたモハ300形301と302。両車とも「飯田線4社」の一角、三信鉄道を経てやって来ました。302はニセスチール化された以外は原型に近い風体でしたが、老朽化には勝てず1966年に名鉄3300系の車体に乗せ替えられます。
▲モハ302 新金谷 撮影年月不明

301は千頭駅構内に長らく保存された後にJR東海に里帰り、大井工場のナデ6141と共に、数少ない院電保存車となりました。
▲モハ301 新金谷 撮影年不明

同じ300形を名乗っていますが、出自を全く異にするモハ305・306。
各社に散ったお馴染みの富士身延モハ100形一派で、弘南や琴電にも仲間がいました。
▲上:モハ305 下:モハ306 いずれも新金谷 撮影年不明

一方のクハは、どれも500形を名乗っていながらこれまた出自はバラバラです。
まずはこちら、元身延クハユニ300形のクハ505。晩年は付随車化されて蒸機列車に組み込まれ、80年代まで活躍しました。
▲いずれもクハ505 金谷 撮影年月不明

超個性派のクハ501。
武蔵野の木造サハを1956年に自社で鋼体化して登場したデンシャですが、ルーツは国鉄釧路工場が明治23年に製造したホユニ5064です。




















▲クハ501 新金谷 撮影年月不明

こちらも一見して社形の旧宮城・クハ502。
▲クハ502 新金谷 撮影年月不明

旧三信のクハ503・506。
改造でイメージは異なるものの、小湊鉄道で保管されているキハ5800は同系です。
▲クハ506 新金谷 撮影年月不明

戦時中に社線を次々に買収してきた国鉄。
しかし戦後も落ち着いてくると、制式車ではない社形は国鉄にとってお荷物となり始め、早くから事業用に改造されたり、地方私鉄に散ったりしていきました。

強権的に買収しておきながら冷たい話・・・となりそうですが、そのお蔭で地方で長く活躍できた訳ですから、余り悪くも言えません。

さて、大井川鉄道というと電車を片っ端から使い回してきた有難くないイメージがありますが、この頃はどうだったのでしょうか。
▲千頭森林鉄道の単端と思しき廃車体 新金谷 撮影年不明

2020年6月6日

長電1000形のこと その2

▲長野電鉄モハ1502 信濃川田 1992-11 

さて、この時は1000形ばかりに眼が行き、今考えると勿体ない話ですが当時最新鋭だった0系や2000系にはほとんど関心が向かず、ついでに撮っていたような感ありでした。

・・・という訳でまずはこちら、長電初の4扉車、0系。
機能面では特に斬新ということはありませんでしたが、洗練されたデザイン。赤基調の塗り分けは他の在来車にも波及し、当線の象徴「りんごカラー」のきっかけを作りました。
晩年は一躍人気者になった2000系はまだ非冷房。
1957年登場時は機能面・デザイン面そして運用面全てにおいて先駆的でした。もちろん全4編成が現役で、優等列車に各停にと八面六臂の活躍中でした。

一大勢力になった赤ガエル、もっとマトモに撮っておけば良かったと後悔です。


▲いずれも須坂 1980-9

既に戦線離脱しているものの、今にも動き出しそうな自社発注車もいました。
開業時に登場したデハ100形の一派のうち、最後まで残ったモハニ131はこの後整備されて小布施の「電車の広場」で保存されました。

モハ604・611の2両は上田交通へ嫁いでいきます。
▲いずれも須坂 1980-9

国鉄ED15と同世代のED50形。
隣には越後交通から里帰りしたED511(旧ED5002)がいました。
こちらもこの後「電車の広場」で保存されますが、2000系が引退するやモハニ131共々玉突き式に追い出されてしまいます。しかしいずれも民間に引き取られ、解体を免れたのは幸運でした。
▲いずれも須坂 1980-9

さてこの日の鉄研メンバーの一団は、許可を貰って須坂車庫の見学会。
しかし前日の乱痴気騒ぎが祟ったのか、蒼白い顔でひどく神妙な者、在来車を放逐した赤ガエルを感慨深げに見詰める者、ホームから吐瀉物を撒く者・・・と一様に夢ウツツのようです。健全な新入生だった管理人だけが、余裕で1000形らを観察しているようでした。
▲モハ604車内。乗務員室間仕切りが風変わりです 1980-9

1000形はこの直後の1981年、権堂-長野間の地下化に伴って一挙に長野線から撤退すると河東線(→屋代線)へ集結、ここが最後の牙城になります。
最終メンバーになったのはモハ1003・1004、1501・1502、クハ1552でした。
▲いずれも信濃川田 1992-11

しかし、河東線にも増殖し始めた赤ガエルによって更に数を減らし、1501・1502の2両だけになってしまいます。このささやかなメンバーで日中の単行運用を淡々とこなすも当然長くは続かず、1993年秋、ついに命脈尽きる時がやって来ました。

1985年の訪問記 →→ こちら
1992年の信濃川田 →→ こちら


▲いずれも信濃川田 1992-11