2020年12月27日

ミニ電車の走る街

▲静岡鉄道静岡市内線モハ59・57 1962-4

公営でない中小事業者による市内電車はかつて全国に散在し、関東近郊でも管理人憧憬の的だった伊豆箱根鉄道軌道線を筆頭に、各地でゲテモノぶりを発揮していました。

現在も広島・長崎・富山を始め元気な姿を見ることができますが、低床車やLRTに席巻され私鉄ならではの面白味には欠けます。

▲伊豆箱根軌道線の切符。実物を見てみたかった

・・・という訳で、今回は手元にある記録から、1962年に廃止された静鉄静岡市内線をアップしてみます。当線は国鉄駅前から安西に至る2.0キロの超ミニ路線ながら、県庁や市役所などがある中心街を走っていました。

市内線が走っていた頃の新静岡駅前。
鉄道線(静岡清水線)との連絡ホームがあり、段差もなく乗換え至便この上なしですね。駅頭には人が集まりバスも行き交い、街全体に活気があるように見えます。


▲いずれも新静岡駅前 1962-4

賑やかな静鉄駅前に比べて、いかにも小ぢんまりした国鉄駅前電停。
鈍重な印象の55形は1929年に登場、当初は単車でした。62年の当線廃線後も、全5両が清水市内線へ移っていきます。
▲静岡駅前 1962-4

こちらは国鉄駅前から少し歩いた場所でしょうか。国鉄駅前-静鉄駅前間は元々独立した路線で、最後まで単線のままでした。

▲いずれも静岡駅前-新静岡駅前 1962-4 

一方の鉄道線はこれも生え抜きの小型車が主役でした。
何でも自社で製造・改造してしまう、静鉄の電車の来歴は複雑怪奇なのが多い。

全面のRが優雅ながら、窓の低さがアンバランスなモハ5形・15の前身は1937年日車製の静岡電気鉄道モハ305。完全な路面電車だったのを戦後改造、63年に引退しています。

モハ2のルーツは目蒲モハ1形。
こちらも戦後車体を新製して乗せ替え、最後は3両編成を組んでいました。


ニコニコ窓も愉快な21形は手持ち部品を組み合わせて造った、完全な自社製品です。


▲いずれも新静岡 1962-4

かつて線路が四方に延び、数多のゲテモノが棲息していた静鉄各線。

しかし当然これらには間に合わず、全国を撮り回る頃には静岡清水線だけになっていました。戦前形に乗ったり撮ったりできないのは如何にもツマランと思ったのか、訪問したのは未だ1984年夏の1回だけ。しかし在来車を追いやった1000形も先が見えて来たようで、再訪の機を窺う管理人です。

▲いずれも長沼 1984-8



▲新静岡 1962-4

2020年12月19日

デンシャ博物館早春賦 その2

▲弘南鉄道モハ1120+クハ2251 大鰐-宿川原 1982-3

さて、ここで漸く腰を落ち着けて車庫を一覗きすることにします。
いつもながら狭い構内にギッチリと押し込められていました。

こちらは本日出番なしの伊那電・クハ1271。小さいスノープラウも似合っていますね。


クハ1610も国鉄モハ30の一派です。


朝の務めを終えて昼寝中の快速編成。
屋根が深いクハ1266は川造タイプの全鋼製車です。

もう1両の伊那電・クハ1272と組んでいたのは東急出身のモハ3404。
東急時代の車番をそのまま使っています。
伊那や身延、武蔵野らを見慣れてしまうと、やたら大人しい印象の旧国鉄のクハ1611。他の国電組と共に弘南線からやって来ました。

身延3兄弟のうち、もう1両のモハ2253は本日はお休みです。

▲いずれも津軽大沢 1982-3

さっきまでの目映い雪晴れはどこへやら、車庫で見て回るうち小雪がちらつき始めました・・・そしてあっという間に吹雪に。


▲いずれも新石川-津軽大沢 1982-3



▲いずれも津軽大沢 1982-3

大鰐線のカットはここで突然終わっており、次のコマは何故か国鉄黒石線のキハ40や弘南線になっていました。大鰐へ戻ったのか中央弘前から延々歩いたのか、記憶がスッポリと抜けています。

社形は充分堪能したし、残り時間は弘南線を覗くか・・・と同行メンバーと協議して転戦したのかも知れません。
▲前田屋敷-黒石 1982-3

先ほどの吹雪から一転、黒石近くはこれまた絵に描いたような雪晴れ。
黒石の少し手前、田舎館辺りに陣取って夕暮れまでの僅かな時間を過ごすことにしました。


▲いずれも田舎館-境松 1982-3

境松を発車するモハ3600形。
三角屋根が特徴的な古い駅舎が残っていました。
境松は延伸開業時の1950年に開業、当初は有人駅(業務委託)でしたが僅か2年で無人化されています。
▲境松 1982-3

境松駅近くでシルエット気味に捕えて、この日は終了。
▲田舎館-境松 1982-3

翌日も津軽鉄道に寄り道、オハ31乗車を果たしたり雪原を行くキハらを撮ったりして早春の一日を過ごしました。その日夜になってから漸く青函連絡船に乗船、北海道初上陸へ思いを馳せながら貧乏旅を続けました。
▲津軽鉄道オハ31車内 1982-3

2020年12月12日

500,000アクセスになりました

▲南部縦貫鉄道キハ102 坪川-道ノ上 1996-8

いつも小ブログをご覧いただき、ありがとうございます。 

先日、アクセス数が500,000に達しました。 
開始から4年半、更新ペースがスローから超×2スローになりつつある昨今、 皆様の応援に支えられながら何とか続けることができました。 改めて御礼申し上げます。 

これまでの記事数は320、写真の数は使い回し画像もありますが、1記事当たり15~20枚としてざっと5,000枚といったところでしょうか。 色やトーンやレタッチなど一応手間をかけて補正しており、 よくもまあチマチマと地味な作業を重ねてきた、と半ば呆れてしまいます。 

▲名古屋鉄道モ751 赤石-長瀬 2000-7

過去記事を見返してみますと、人気のある記事・全くない記事・ビミョーな記事と色々ですが、この節目に閲覧数ベスト5を振り返ってみたいと思います。 


小学校時代のお粗末画像の本記事は、買ってもらったばかりのレンジファインダー機「ヤシカエレクトロ35」片手に、熊谷の車両基地に居並ぶ電機や当時謎だった電車「初代クハニ29」を見に行った時のスナップ集。この頃の熊谷は広い構内を持ち、視界を遮る邪魔物もなかったことを思い出します(→ その2 もあります)。 



▲いずれも熊谷 1974-3


以外や以外ながら、記事中の写真が公式ツイッターに取り上げられたお蔭でした。 
ほぼ1日でこの数字を叩き出し、あとはひたすら低空飛行・・・恐るべし公式サイトの威力です。 

▲高田 1989-2 



▲水田-西前田 1989-2


小ブログを始めて2番目の記事で、文字通り初めてデンシャにカメラを向けた頃の駄作集。フィルムの消費枚数を気にしながら、小汚い恰好をして自転車を駆り撮り回っていました。ベージュとオレンジの旧塗装に懐かしさを感じて頂けたでしょうか。 

▲田島-佐野市 1974-9


▲佐野市 1973-12


辛うじて捕えることができた赤色時代の荷電や「クエ7001」、「ヤ1」などを収録しています。 
▲館林検修区 1974-5

▲館林 1974-7

そして1位はこれも東武、貨物王国・葛生(同 5,665)。 

現在までほぼ毎日アクセスがあり、じりじりと票を伸ばして断トツのトップになりました。

葛生は自転車で行ける立地にありながら、あまりに当たり前の風景だったせいか碌に記録をしないまま終ってしまい、未だに悔やむ悔恨の地。 

当時の葛生はまさに「魔境」で、山奥まで伸びる東武貨物線は勿論、日鉄羽鶴線や石灰業者のトロッコ、住友セメントのナローとまさに貨物のパラダイスでした。貨物専用線に関心を向けず、国鉄特急にばかり目を輝かせていた自分を叱ってやりたい心境であります。 

▲いずれも葛生  上:1974-5 下:1974-10

最近入手した、因縁の住友セメントもお目にかけましょう。 


▲いずれも葛生 日時不明 

ほか閲覧数上位の記事はこのようになりました。 

8位・・・EF12と70系と(同 1,429)  (→ その2 その3 もあります)
10位・・・「とってつ」回想その1(同 1,306)  (→ その2 もどうぞ

▲上毛電鉄デハ222 大胡 1974-3

▲野上電鉄モハ31 登山口 1993-6

▲両毛線クハ76ほか 佐野-富田 1977-1

因みに下位の方はこんな感じです(最近3か月の記事を除く)。 
箱根登山や小湊鉄道などここ10年以内に撮ったメジャー路線や、「地方私鉄」を標榜しているせいか、国鉄型蒸機の記事はこの得票数でした。 

津軽鉄道や片上鉄道など非電化路線も、どちらかというとうーむな閲覧数。 
過去画像を並べるだけの記事構成も含めて、これは自戒せねば・・・  

小湊晩秋 (同 177) 
函館市電とハイカラ号 (同 173) 
箱根登山鉄道 宮ノ下 (同 164) 
時々、蒸機日和 (同 158) 

・・・という訳で相変わらず超ノンビリペースになりそうな按配ですが、 今後とも小ブログを宜しくお願い致します。
▲福井鉄道120形 福井駅前 1978-4