2021年10月28日

国電ラインカラー時代



▲中央線101系特別快速「おくたま」 新宿 1975-10

小学校低学年の年端だったか、色彩というものに拘りというか人一倍関心を持っていました。文房具屋の息子だった同級生に「日本色研」の色見本帳を取り寄せてくれと頼んだり、使いこなせもしないのに、西ドイツ製の100色クレパスセットを親に無心したりしました。

流石にこれらは叶う筈もなく、ならばとお年玉を投じて入手した50色水彩絵具を混ぜ合わせて中間色を次々に作り、例えばレモン色からダークグリーンまで境目のないグラデーションを画用紙に描いたりする、そんなお子でした。

それが昂じて将来は「色」にまつわる仕事、例えばカラーコーディネーターに就けないものかなどと夢想するも、無論甘い世界ではないでしょうし、「何だそれ」と周りからも鼻で嗤われる始末でした。



▲ラインカラー導入前の国電といえばブドウ色 上:武蔵白石 下:我孫子

そんな子供ですから、ことデンシャに関しても先ず塗色に眼が行くように。
中でも単色で勝負する101・103系国電のバラエティに対して志向が強かったようで、当時「1枚ナンボ」だったフィルムを、同じく憧れだった20系特急と共に惜しげもなく彼らに消費しています。
▲上野 1973-9


▲東京 1974-5

国電ラインカラーの嚆矢は1957年、中央線の90系(→101系)の「朱色1号」でした。
ブドウ色やスカ色しかなかった通勤電車にあって鮮烈なデビューを果たす訳ですが、乗客らが初めてこの色を眼にした時の衝撃は如何ばかりだったでしょうか。

▲東京 1980-4

▲東京 1979-12

1960年、中央線に次いで登場したラインカラーは山手線の101系「黄5号」。
しかし63年に「黄緑6号」の103系が登場するとこちらが山手線の顔になり、101系は総武緩行線に転属します。この3色の誕生によって、最初期のラインナップが揃いました。

路線ごとに電車を色分けし、誤乗車を防止するアイデアは営団地下鉄を始め、広く各方面に波及しました。黄緑6号は現在も山手線カラーとして君臨すると共に、関西線や横浜線など各路線で採用されています。


▲大崎 1980-4

第4弾は1965年に登場した京浜東北線の「青22号」。
こちらも京阪神緩行線や中央西線、阪和線、和田岬線、筑肥線と各地の103系に使用されました。
▲下十条電車区 1975-7

50両の小世帯だった青22号の101系。
103系化が進んでもなお72系が闊歩していた京浜東北線にあって、置き換えを加速すべく中央線からの転属組が助っ人になりました。

▲秋葉原 1975-1

「黄5号」は当初山手線カラーだったのが総武緩行線へ移り、そのまま総武カラーとして定着しました。


▲亀戸 1975-1

黄5号は赤羽線や南武線、鶴見線でも使用されています。
▲池袋 1974-1

ラインカラー第5弾は1967年にデビューした常磐線の「青緑1号」。
青系・グリーン系の中間色好きの管理人にとっては、断然ごヒイキのカラーです。

しかし、常磐線と成田線以外の使用例は長い間なかったようで、これは以外でした。JR時代になってから加古川線130系3550番代やキハに採用されています。

▲柏 1974-2

地下鉄乗入れ用の103系派生形式では、グレーの地色にそれぞれのラインカラーを巻いた装束になりましたが、千代田線用の1000番代は1971年に登場。

小学5年の頃だったか、同級生から借りた「鉄道ジャーナル」誌に相互乗入れ特集記事があり、営団6000系と共に眼瞼に焼き付いたのがこの1000番代でした。ブタ鼻ライトは頂けませんが、独自形状の窓にJNRロゴが鉄道少年には新鮮に映ったのでしょう。


▲松戸 1976-2

こちらは東西線乗入れ用1200番代。
この後、先輩格の301系と共に帯が青に変更されます。
▲三鷹 1976-7

1979年暮れ、首都圏最後の旧型国電の牙城だった鶴見線にも、都落ちした101系がやって来ます。黄5号に統一されるまで混色編成が見られました。



▲いずれも浅野 1979-12

1970年代末まで72系が残った横浜線では、73年から蒲田電車区の103系が充当されるようになりました。こちらも青22号との混色編成が見られましたが、黄緑6号に統一され現在も当線のラインカラーになっています。


▲八王子 1976-7

ラインカラーはローカル線にも波及し、ブドウ色やスカ色しかなかった旧型国電のイメージも一変します。黄緑6号は仙石線や可部線へ、青22号は大糸線や富山港線へ・・・といった具合に版図を広げていきました。

そしてJR各社もラインカラー化策を更に拡大、北海道から九州まで多種多様な顔触れが揃いましたが、これはまさに端緒となった101・103系の功績と言って良いでしょう。

▲上八木-中島 1980-9

▲松本 1976-7

田舎高校を出て上京し、早速入部した大学鉄研メンバーにこの話をすると「栃木からわざわざ103系を撮りに来た」と揶揄されたような気がします。101・103系はラッシュ地獄の象徴のような存在である上に、まだ引退の話もなかったですから「何でそんなものを撮るのか」と訝ったのも無理からぬことかも知れません。

ちょうどその頃、最大の関心事は地方ローカル私鉄や旧型電機・旧型国電に傾きつつあり、彼らを目指して全国放浪の旅を始めていました。そして同時に、色彩への情熱が少しずつ冷めていったのも、この頃からでした。

▲上野 1974-8

2021年10月16日

1960年 或るミニ鉄道の記録



▲水間鉄道モハ56 1960-1 水間

現在はうーむな装束をまとった東急7000系に統一された水間鉄道。
たった5kmの沿線は住宅地だらけでこれといった特色もなく、「地味度」にかけては日本有数かも知れません。しかし、歴代の車両を見るとこれが多種多様、しかも次々に転入・転出が繰り返された経緯がありました。

・・・という訳で、本日は手元の古い記録から1960年の水間線をお送りしてみます。
フィルム原版はビネガーシンドロームに罹患はしていないものの、満身創痍ぶり甚だしくキズにカビだらけ、加えて超眠い諧調にピンボケとマイナス要件オンパレード、補正作業もこれが限界でした。

先ずはこちら、モハ1です。
開業時に登場したモハ1形(初代)の機器に戦後新製した車体を載せて誕生。前面のRと腰の低さが何ともアンバランスな、独特のスタイルでした。





モハ11は南海タマゴ形・モハ111の機器に阪急63形の車体を組み合わせて登場しました。



こちらは尾道鉄道との交換トレードでやって来た、元宇部鉄道のモハ56。
宇部鉄道は多くの電車を有していましたが大部分は国鉄時代に淘汰、しかし4両が日立電鉄に嫁ぎ、数を減らしつつも1991年まで活躍しました。



南海から融通して貰った古い部品に新造車体を載せて誕生したモハ251。
2両の仲間のうち、252は倉庫代わりのダルマさんになって余生を送っていました。



1972年に貨物輸送が廃止されるまで、電車が貨車を牽く姿が見られました。
古典的なフト1(旧南海)の隣にいるワムは国鉄からの直通車でしょうか。
▲いずれも水間 1960-1

これ以外にも火災で焼失した車体を復旧の際、四角四面の珍妙な姿で再生された者あり、登場後10余年で九州は荒尾市営に嫁いだ者あり、はたまた旧高野山電鉄や淡路交通OBなどなど・・・1970年に南海1251形で統一されるまで、メンバーの入換えが矢継ぎ早に続きました。

ところで水間と言えば、切符も一風変った独自様式。
よくある「○円区間」や「○から○行き」ではなく「○区」という表示は関西流ですが、戦後間もなく始まったこの様式は1987年頃まで続きました。
▲「特区」の意味が未だに不明

▲歴代の車内券も独特。右下の最終様式はCIマークが地紋に

2021年10月6日

四季の谷汲線・盛夏(2)

▲名古屋鉄道モ754 北野畑 1995-8

1995年の夏休みは特急「北陸」を奮発し、昇圧直前の北鉄浅野川線を皮切りに京福電鉄や福井鉄道も立て続けに訪問、福鉄モハ161の走行シーンなど懸案をいくつか消化しました。せっかくの休みですからこのまま大人しく帰るハズもなく、汗まみれの風体で谷汲詣でに向かうことにしました。


この時はフェーン現象のせいか凄まじい暑さ、陽が高いうちから福井鉄道を早々に切り上げてローカル列車でノンビリと北陸線を上ります。

大垣の安宿に投宿した翌日は樽見鉄道初乗車からスタート。山里の風情が好ましい木知原でレールバスを見送り、根尾川を挟んだ向こう側の谷汲線に向かいました。


▲木知原 1995-8

20分ほど歩いて、川向こうの赤石駅へ。
根尾川は朝早くから釣り人や川遊びの客らで賑やかでした。


▲いずれも北野畑-赤石 1995-8

朝の列車交換は既に終わっていますが、北野畑まで歩いてタブレット風景を狙うことにしました。初めてここに立った頃にはなかった後ろのプレハブが何とも残念で、モノクロに切り替えて目立たぬように・・・とやっぱり目立ちます。
▲北野畑 1995-8

この頃は駅員さんが常時詰めていた北野畑も、1998年春のダイヤ改正後は谷汲さん命日や行楽シーズンを除いて無人になりました。木の架線柱の林立も、この後暫くして半分がコンクリートに替わりました。

モ754は谷汲線廃止まで残った3両のうちの1両。
張り替えたばかりと思しき屋根のキャンバス、ちょっと違和感ありです。

▲いずれも北野畑 1995-8

この後は北野畑から長瀬まで乗車。
長瀬付近は四季折々に違った表情を見せるお気に入りの場所で、廃線の日まで数え切れないほど徘徊することになりましたが、現在はどうなっているでしょうか。



▲いずれも赤石-長瀬 1995-8

ここから谷汲まで歩き、駅前の喫茶店でようやく小休止。
沿線には腹拵えができる場所、というより人家も余りないですから、うっかりすると食いっぱぐれてしまいます。

小汚い格好でも気軽に入れる店は、長瀬と谷汲駅前に喫茶店が1軒ずつ、駅間に蕎麦屋とよろず屋のようなコンビニが1軒ずつ、赤石駅前に鮎料理の店があるが入れる雰囲気ではない、他の駅はゼロ・・・何度も通っているうちに、ここら辺の地理に妙に詳しくなってしまいました。


▲谷汲 1995-8 

人心地ついた後は、ここから一駅戻ります。
この辺りは、山深い風景をしばらく走ったかと思うと放り出されたように田園風景に豹変する、乗っても楽しい区間でした。


▲いずれも長瀬-谷汲 1995-8

さて、2両のモが行ったり来たりに飽き始めたのに加えてこの酷暑、まだ陽は高いですが引き揚げることにします。

帰りがけの駄賃といったら贅沢ですが、下方で下車。
モ770形に押されて縄張りが小さくなった在来車も、朝夕を中心にまだまだ元気でした。

▲政田-下方 1995-8

辺りが薄暗くなってきた頃、数少ないモ510形定期運用の一つだった夕方便に乗って帰途に就くことにします。長い夏の一日が終わりました。
▲政田 1995-8

四季の谷汲線 →→   / 盛夏(1) / 晩秋 / 

▲北野畑 1995-8