2022年1月27日

1981年北陸行 その7

 ▲福井鉄道モハ121-1ほか 西武生 1981-9

さて、またも「夜行列車でUターン技」を使い、めでたく早朝の敦賀に到着。
立ち食い蕎麦を平らげるや、同行の鉄研メンバーから「北陸本線を撮りたい」とのリクエスト、隣のこちらの駅へ向かうことにしました。

ループを眺望できる有名ポイントを探すも、思い付きで降りて辿り着けるほど甘くありません。やはり皆目見当がつかず、駅からほど近い線路端で妥協です。


▲敦賀-新疋田 1981-9

北陸線電機の代名詞だったEF70。
北陸トンネル開通に合わせてデビューした同機は、貨物に特急牽引機にと華々しい活躍を見せます。しかし、交流機であったため守備範囲は徐々に狭まり、この頃は主役の座をEF81に譲りつつありました。1980年に仲間20両が九州へ渡っていますが、ここでも持て余されて僅か2年で戦線離脱しています。

貨物列車の大半はEF81に交代していました。
えちごトキめき鉄道(何でこんな会社名なのか・・・)での復活運転で今や注目の的になった455・475系列は、急行「立山」「ゆのくに」「くずりゅう」を始め快速にも運用され、100両余りが在籍する旅客車の最大勢力でした。






絶滅危惧種のEF70初期ナンバー。
今回の旅で見かけたのはこの11号機だけでした。


▲いずれも敦賀-新疋田 1981-9

続いては本日の本命、福井鉄道へ向かうことにします。
個性的な奇車・珍車の宝庫だった福井鉄道ですが、1973年に鯖浦線が廃止になるとその大半は整理されてしまい、78年に2代目140形が登場すると更に車種統一に拍車がかかります。

しかしそれでもなお、郊外線の大型車が路面に乗り入れる姿は依然として魅力的で、京福電鉄と共に外せない路線でした。

▲全線健在の頃は切符もバラエティ豊か


▲市内線ローカルも走っていた

早速武生新に向かうと、側線にはお役御免になったと思しき電車たちの姿。
これは半年前に廃線になった南越線のメンバーで、廃線間際に走ったイベント列車「デキ+130形2両+モハ11+デキ」が、その編成のままで据え置かれていたのでした。

モハ130形は手持ち部品に新製車体を組み合わせて誕生。
晩年の南越線はこの2両が行ったり来たりで面白味に欠けると思ったのか、訪問叶わぬまま廃止になってしまいました。ただ車両的にはうーむでも、社武生や五分市などそそられる駅風景は数多あった筈、そうした視点が欠落していた当時が残念でなりません。





モハ11は福武電鉄開業時の古参で、当初は木造ダブルルーフの付随車でした。彼ら3両は一旦西武生に配属されるも、走ることなく揃って1986年に廃車になります。


元遠州鉄道ED213のデキ3。
先輩格のデキ1や2が引退した後もイベント列車に活躍しますが、2021年に除籍されました。
▲いずれも武生新 1981-9

フェーン現象のせいもあってか、この日も朝から文字どおり茹だるような酷暑でした。
めげずに、同行の鉄研メンバーと連れ立って隣の西武生まで歩きます。
・・・次回、最終回です。

▲市役所前-福井駅前 1981-9

2022年1月18日

1981年北陸行 その6

▲京福電鉄モハ2005 轟 1981-9

さて、車庫で主力メンバーを押さえた後は沿線へ、読みが珍しいこの駅で下車。
「永平寺町轟」という地名によるものですが、近くを流れる九頭竜川の轟音に因んで命名されたと言われています。この駅舎は、全面白ペンキに塗られつつ現在も残っています。

本日の勝山線当番はいずれも南海OBの2001形と3001形。
3001形は四国連絡の優等列車で慣らした南海初のカルダン車・11001系で、総勢9両の大所帯でした。

▲いずれも轟 1981-9

背後に山、手前はカーペットを敷いたような田圃という山里の風景をノンビリと走ります。
カラーで撮れれば良かったものを、モノクロ一本槍のこの時は背景に埋没しそうな画しかできません。




▲いずれも轟-越前野中 1981-9

・・・とそこへ想定外の列車が。
朝方、福井口でチョイ見したテキ521形の工事列車です。これは撮り直すしかないと同行の友人と即決、このまま炎暑の下で粘ることにしました。




















待つことしばし、復路がやって来ました。
この辺りは旧家が多く風景に溶け込んでいるせいか、背後に写り込んでも違和感がありません。







先ほど車庫で昼寝を決め込んでいた271形も出動して来ました。
▲いずれも轟-越前野中 1981-9

続いては永平寺線へ転戦。
朝っぱらから飲まず食わずで歩き続けてきたので、先ずはこちらで小休止にしました。蝉時雨の永平寺駅、ここもカラーで残したかったところです。





281形の前身は東急3300形で、元は院電の木造車。
東急引退後は当線のほか、福島交通や上田交通にも再就職しました。京福カラーも良く似合っています。





241形と同じ車体ながら、こちらは事故復旧車の251形。
2000年の暮れ、このモハ253(ワンマン改造の際251に変更)が悲惨な正面衝突事故を起こし、新生えちぜん鉄道誕生のきっかけを作ったのは周知のとおりです。

▲いずれも永平寺 1981-9

沿線に繰り出す頃には陽が傾き、山影が迫ってきました。
ISO125では露出が稼げず、東古市から折り返して来る1本を押さえてタイムアップです。


▲いずれも諏訪間-京善 1981-9

酷暑で全身ヘトヘトになりながらこの日も無事に終了、福井へ引き揚げます。
さてその夜はどう過ごしたのか・・・記憶が全くなく、手元の走り書きメモを見るとまたも夜行列車折り返しとの記載が。

同じ宿に戻れば良いものを、2泊連続で駅前ホテルは贅沢と思ったのか、懲りもせず再び福井から上野行「越前」に乗車、糸魚川で降りて大阪行「きたぐに」で折り返しました。我ながら恐ろしい体力です。

こうしてめでたく一夜を明かし早朝の敦賀に到着、早速ありついた駅蕎麦がえらく美味しかったのを憶えています。
・・・まだ続きます。
▲永平寺 1981-9

2022年1月9日

1981年北陸行 その5



▲京福電鉄テキ521 轟-越前野中 1981-9

貧乏撮影旅行を続けていた学生時代は、「いかに安く夜を明かすか」が重要課題でした。
「夜行列車でUターン技」だけでは限界がありますし、せめて風呂くらいには浸かりたい。ユースホステルは市街地から遠いのが多いし、そもそも一人で泊まる度胸もない。

・・・となると、総合点でのトップはやはり駅前の安宿ということになります。
ネットがないこの時代はビジネスホテルの案内本が必需品で、近さと金額を秤にかけながら選択には随分と悩みました。同行の友人がいれば暑苦しいツイン部屋にして数百円を浮かしたりもしました。


▲轟-越前野中 1981-9

さて、この日も福井駅前の安ホテルに投宿後は今回の旅のメイン・京福電鉄です。
軒先だけで失敬した1978年春以来の訪問でした。

先ずは福井口車庫を一覗きです。
70年代始めまでの当線は、雑多な生抜き組に加え旧阪神に旧京王と転入組も魅力のキャストで、まさに珍車・奇車の宝庫。形式名が「ホデハ」「ホクハ」であるところにも惹かれましたが、この頃は南海車に席巻され形式も「モハ」「クハ」に代わっていました。
▲京福と言えば雷マークの社紋

▲社線内は軟券が多かった

2000形は言わずと知れた南海1201形。
16両の大所帯でお輿入れし10年に亘り主役を務めますが、この翌年から阪神ジェットカー車体への載せ替えが始まりました。



241形の前身は京都電燈(京福京都→叡山電鉄)デナ11形で、1957年にこちらの日車標準車体に変身。足回りは古くても全金車体でしたから、南海車がやって来るまでは本線の優等列車にも充当されました。

こちらは戦後の自社発注車、モハ1001形。
3両の少数民族が祟ってか、時折区間運用に出動する程度で目立たない存在でした。この後間もなく、仲間の1002が事故廃車になるや道連れにされてしまいます。
▲いずれも福井口 1981-9

モハ271形の出自は小田原急行鉄道の祖・1形。
各地へ散った仲間のうち、3両が相鉄を経てやって来ました。当初サハを挟んで3両固定編成を組んでいましたが、既にサハは外されています。


こちらはマスコット的存在のテキ6。
電動貨車然としていますが、1920年に京都電燈が導入した由緒ある機関車で、本線貨物がなくなってからも車庫入換え用に長く在籍しました。えちぜん鉄道になった現在も、勝山で大切に保存されています。




保線やラッセル用に残った日立製のテキ521。
パンタを上げて待機中のところを見ると、この後出動するのでしょうか。


片隅にはお役御免になったデンシャ達が鎮座しています。
もしやと淡い期待を抱いていた元国鉄EC40のテキ512は、残念ながらいませんでした。





▲いずれも福井口 1981-9

南海車ばかりでモチベーションは低空飛行ながら沿線風景に転戦、先ずはこちらで下車することにしました。
・・・まだ続きます。
▲轟 1981-9