2024年11月17日

弘南鉄道 最後の木造車

▲弘南鉄道クハニ203 西弘前 1970-11

「あと10年、いや5年早く生まれていれば間に合った」と叶わぬ妄想を抱いた路線は数知れず。しかしこれが「滑り込みアウト」となると、山形交通や庄内交通を始め、東武32・54形、上田交通真田傍陽線、世代交代前の長電や関東鉄道・・・と近場にも憧憬の路線がずらりと並び、やはり臍を噛まずにはいられません。

国鉄や秩父鉄道の木造車が70年代半ばまで棲息していた弘南鉄道大鰐線も、またしかりでした。鉄道少年時代から木造車好きの変わったお子でしたから、弘南カラーに塗分けられた彼らはさぞかし「男前」だっただろう、と渇望は一際強いものがありました。
▲間一髪で間に合った栃尾線 長岡 1974-8

・・・という訳で、今回は手持ちの古い記録からこちらをお送りします。

まずは原型に近い姿のまま最期を迎えたクハニ203。
3両の仲間(201~203)はいずれも旧国鉄のサハ19形で、元を糺せば明治末期から大正初期に登場した6000番台で始まる院電の一派でした。





妻面だけが半端に鋼体化されたクハニ201。
この頃は荷物室をなくしてクハ201(初代)になっていました。






上の201とそっくりのクハ202。
同じフィルムにはなぜか相方・モハ100形の姿が1枚も写っておらず、撮影者に何か意図があったのでしょうか。秩父鉄道オリジナルの木造車を簡易鋼体化したゲテモノだっただけに、本当に惜しい。
▲いずれも西弘前 1970-11

次は同じフィルムに写っていた弘南線です。
こちらは国鉄車と富士身延車の天下で、特に身延車は総勢7両の大所帯でした。

この後東急から3600形が大挙してやって来るのと引き換えに大鰐線へ集団移住することになりますが、クハニ1280形3両はその対象から外され、そのまま引退してしまいます。


▲いずれも平賀 1970-11

管理人世代にとっては弘南鉄道の代名詞的なデンシャだったモハ2250形。
彼を目当てに、遠い弘前の地へ何度足を運んだことでしょうか。

弘南線のもう一人の主役は旧国鉄クモハ11+クハ16コンビ。
この当時付いていた行先票は、折り返しの度に職員が一々抜き差しするものだったのでしょうか。

▲いずれも平賀 1970-11

前職の松尾鉱業からやって来たばかりの旧阪和のモハ2025と2026。
この後クハに改造されて東急車とペアを組む姿を見た時は、車体の大きさの違いに驚いたものです。巨体はもちろん、高性能過ぎて地方私鉄には役不足だった阪和形が再就職したのは、急勾配ゆえハイパワー電車を要した松尾鉱業へお輿入れしたのが唯一の例でした。
▲いずれも平賀 1970-11

最後は切符「見せびらかしコーナー」です。
この当時に記念乗車券を発行していたのは僅かに国鉄と公営交通くらいで、地方私鉄はほとんど例がありません。開業という一大イベントだったこともあるのでしょうが、当線への期待も大きかったのでしょう。
▲手作り感が満載


▲ごく初期を除けば金額式の軟券ばかりだった

▲弘南線の方はバラエティ豊かだった

▲西弘前 1970-11

2024年11月9日

「選外ポジ」の記録から

▲南海電鉄1521系 和歌山市 1988-1

それまで見向きもしなかった「失敗作」にデジタルの恩恵で光が当たるようになった、というエピソードはしつこく記事にしてきましたが、今回はリバーサルフィルムの「没コマ」からの救済編をお送りしてみます。

10年前、手始めにと初めてデータ化したフィルムは1コマごとに切り離されたリバーサル(ポジ)。カラーネガやモノクロのように反転する必要もなし、デジカメで複写してトーンや色調を少々調整すれば一丁上がりという按配で、初心者に敷居が低かった。

しかしまだ何も分からぬ入門者でしたから、デンシャがやたら小さく写っていたり極端な露出不足は除外し、お気に入りのカットだけを選抜。データ化に慣れてくると大抵の没作品が画像ソフトで救済できることが判明し、それまでスルーしてきたコマを全て見直すことになりました。
▲こちらも超露出アンダーから蘇生 西野町 1987-3

まずはこちら、1988年正月の阪堺電車。
モ160形は全車が健在で120形や150形も第一線で闊歩していましたが、その大半はド派手な広告電車になっていました。浜寺駅前電停の隣にあった酒屋は姿を消し、今は小ざっぱりしています。




▲上:住吉 中・下:浜寺駅前 いずれも1988-1

1993年に廃止になった南海天王寺支線の今池町。
上を走る阪堺電車の橋桁の銘板には「明治44年 横川橋梁製作所」とあります。

小さな駅事務室は塞がれており、出札口跡には鉄格子が嵌めてありました。今よりも数段危ない街だった今池界隈をもう少し歩き回りたい衝動に駆られましたが、決行していたら五体満足で帰れなかったかも知れないですね。
▲今池町 1988-1

社会人になって間もない頃、鉄研時代の同窓生と出向いた栗原電鉄。
ちょうど細倉鉱山の閉山を控えた頃で、ガニマタ電機ED20形が最後の活躍をしていました。
▲鶯沢-細倉 1987-2

オリジナルでは何と言うこともないカットも、モノクロに変換しコントラストやらトーンやらを少々補正してみると別物に変身します。リバーサルをモノクロに作り変えるなんて、銀塩時代では考えられない処理でした。




▲いずれも細倉 1987-2

細倉駅近くにあった小高い丘から。
鉱山住宅と思しき家々から、まだ人の息吹が感じ取れました。今はもう根こそぎ消えているでしょう。

▲細倉付近 1987-2

鉄道少年時代から通った上田交通。
「丸窓」時代最後の訪問は、昇圧を2週間後に控えた秋でした。

▲上:別所温泉 中:八木沢-別所温泉 下:下之郷 いずれも1986-9

旧型時代の弘南鉄道は、西の琴電と双璧をなす東の「電車博物館」。
一大決心をしないと行けない場所柄ながら、若い時分は急行「津軽」を、自分で稼げるようになると寝台特急「はくつる」を愛用して何度も訪問した路線でした。3枚目、背景に工場が写り込んだカットはあまりにも殺風景で長い間スルーしてきましたが、モノクロに変換すると幾分か見える画になりました。
▲上:津軽大沢 中:小栗山 下:新石川-津軽大沢 いずれも1986-8

弘南鉄道の翌日は、花輪線初乗車。
高原の風を浴びながら、この日は龍ケ森から荒屋新町までのんびりと撮り歩きました。今とは違って、爽やかな夏の一日でした。

▲上:荒屋新町-小屋の畑 下:田山-横間 いずれも1986-8

数分の狭間に、窓を開けて駅弁屋さんを呼び止める風景も今や絶滅危惧種。
信越線・横川を始め、何度となく眼にしてきたこうした点景も、もっと記録しておくべきでした。

▲新庄 1988-5

最新の画像ソフトを駆使すれば露出不足や色の補正、障害物の消去も一瞬で済んでしまう由、またモノクロを総天然色に変えてしまう術も不完全ながら普及しつつあります。

管理人が未だに使っている骨董品級の画像ソフト+オンボロPCも限界で、そろそろ最新機種への世代交代をと画策しているところですが、いやちょっと待て、と立ち止まっています。

写り込んだ人物を一瞬で消し、ドンヨリ曇り空を一瞬で青空にし、眠い画を一瞬でシャープな画に・・・これは一体どこまでが「写真」でどこからが「絵」なんだろうか。自分のやってくるコトは画像編集なのか、イラスト作成なのか。

▲阪堺電気軌道 恵比須町 1988-1

▲栗原電鉄 沢辺-津久毛 1988-9

2024年10月27日

鶴見線の異空間駅

 ▲鶴見線 国道 2024-5

最近のJR駅の改装といったら、とにかくオシャレかつ小綺麗にして店舗ばかりを増やし、何とかして客を駅外へ出さないようにする施策ばかり。ホームも通路もコンコースも待合所も狭苦しくて危険になる一方で、交通インフラの使命はどこ行ったと言いたくなります。

まあ民営ですから仕方ないのでしょうが、最近の「みどりの窓口閉鎖騒動」といい、安全とかサービスより消費欲を刺激することばかりに腐心していると思うのは管理人だけではないでしょう。
▲国道 2024-5

そんな中、誘客の見込みなしと見られているのでしょうか、鶴見線の各駅はこの50年ほとんど変化がありません。「強欲リニューアル政策」とは無縁の当線、しかしそこに惹かれて鉄道オタクだけでなく乗車だけを目的とした一般客が増えているのは、そうした非日常と無縁ではないのでしょう。

こちらは異世界の筆頭格、国道駅。
2014年当時は、まだ木製のラッチがありました。
▲いずれも国道 2014-5

こちらは最近の国道駅。
この数年、「推し活動」の一環として励んでいる古い商店街巡りの折、10年振りに立ち寄ってみました。ラッチがなくなった以外、「間違い探し」をするくらい変わっていませんでした。この姿のまま幾星霜、何人の乗客を見送ってきたのでしょうか。


▲いずれも国道 2024-5

変化といえばガード下の住居はベニヤ板ばかりが目立ち、郵便受けは塞がれていました。
いつまで経っても変わらないようで、少しずつ、しかし確実に変化は進んでいます。戦後居ついたであろう住人らは、一体どこへ行ったのでしょうか。








最後まで営業していたこちらの居酒屋も、最近になって店を閉じました。
▲いずれも国道 2024-5

駅舎ばかりではツマランですから、旧型国電時代のカットも幾つかアップしてみます。
初めて鶴見線に乗ったのは1976年の夏休み、まだロクサンの残党が主役だった頃でした。これ以降、思いついては幾度となく通うようになり、国鉄(JR)線ではダントツの訪問回数になりました。

▲いずれも扇町 いずれも1976-7

こちらは1977年の初夏。
この翌年、南武線から撤退した更新車が大挙してやって来ると、玉突き式にロクサン車のほとんどは駆逐されていきました。

▲上:武蔵白石 下:国道 いずれも1977-5

そして72・73形が終焉を迎える頃。
都落ちしてきた101系が活躍を始め、混色編成も見られました。


▲いずれも浅野 1979-12

大川支線用に残った2両のクモハ12。
1988年、本線の閑散時間帯用に白羽の矢が立ち、1.0kmの狭苦しい職場から解き放たれたように、軽快に飛ばす姿をしばし見ることができました。

▲新芝浦-海芝浦 1990-5

▲武蔵白石-大川 1990-8

▲弁天橋 1990-5

駅構内に初めてコンビニができたのは確か90年代の中頃、阪急十三駅の「アズナス」だったでしょうか。出来たばかりの頃は物珍しくて、管理人も野上電車訪問の折にわざわざ立ち寄ったりしました。

そしてこれを好機とみた各社、特にJRは全国的かつ加速度的に導入し、ネコの額ほどの空間にも増殖させていきます。もはやヨーロッパのターミナルのように、古い建造物を後世に残すべく脈々と守り、堂々とかつ広々とした空間を維持する姿勢など望むべくもないのでしょう。

一方の鶴見線。
車両は変転すれど、国道駅を筆頭にゴツゴツした鉄柱も、戦中の弾痕が残る施設も、工場街の空気感も不思議なほど変わらず、首都圏では抜きん出て「置いてけぼり」状態です。しかし、ここだけはいつまでも置いてけぼりを食っていて欲しいと願う管理人です。

▲武蔵白石 1977-5

▲国道 2024-5