2024年9月14日

夏の北恵那の記録から その1

 ▲北恵那鉄道モ565 撮影場所・撮影日不明

手元の古い記録から、本日は「ほんの一覗き」に終わってしまい、乗車も叶わなかった北恵那鉄道をアップしてみます。

北恵那のデンシャに会ったのは1976年夏休みのこと。
上野発の夜行急行「妙高5号」乗り込み、上田交通や長野電鉄、松本電鉄を訪問後、名古屋経由で舞い戻ってくるという「大回り旅」の道すがらでした。中津町に着いた時は既に午前の運行は終わっており、夕方まで長い昼寝をしながら屯する電車達を見て回ってオシマイの体たらく、まさに一期一会でした。


▲いずれも中津町 1976-7

まずは撮影叶わなかった走行シーン、といっても撮影地が不明なカットばかりです。
光線の按配からして夏の夕刻でしょうか。一枚目、行く末を象徴するかのような草ボウボウを掻き分けながら駆ける姿には、今回最も惹き付けられました。



▲いずれも撮影場所・撮影日不明 

撮影名所だった第二木曽川橋梁。
どのコマもとにかく変退色やカビ・シミと劣化のオンパレードで、修正もこの辺りが限界でした。


▲いずれも中津町-恵那峡口 撮影日不明

橋梁は全部で15箇所もあり、木曽川や山之田川、付知川などいくつも川を渡ります。こちらは恵那峡口-山之田川でしょうか。

▲撮影地・撮影日不明

▲山之田川付近? 撮影日不明

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
もったいぶって次回に続きます。


▲さよなら記念以外で発行したのは50周年記念(71年)だけだった

2024年9月4日

1998年春 長崎にて

▲長崎電気軌道863・209 観光通り 1998-4

1998年春、長崎での退屈な出張仕事を終えると、予約しておいた安宿へ。
まだビジネスカジュアルなどなかった時代、スーツ+ネクタイ姿では物見遊山の名所巡りを気にもなれず、カメラ1台だけを持って駅を覗いてみました。

広い構内に行き止まりの櫛型ホームのあった長崎は終着駅らしい趣で、今とは別物でした。ここに限らず、新幹線が通るとオシャレな店ばかりが増殖し、鉄道施設は例外なく狭苦しくてツマランものに変貌してしまいます。

さて入場券を買ってホームに出てみると、東京行のロングラン「さくら」が夕陽を浴びて客待ちをしていました。日本の特急列車でもとりわけ長い歴史を誇った「さくら」も、この翌年には「はやぶさ」と併結、その後2005年に廃止になってしまいます。

▲いずれも長崎 1998-4

「さくら」を見送り、駅前に出てみました。
帰宅ラッシュに差し掛かり、電停には雑多な電車が数珠つなぎで待機しています。

都電カラーに復刻された700形は元1067mm区間用の2000形。5両の仲間が次々に離脱する中、開業70周年を記念した動態保存車として残り2019年まで活躍します。

▲いずれも長崎駅前 1998-4

明けて翌日、もう一度長崎駅へ。
ここで大阪からの「あかつき」を狙うことにしました。


「あかつき」は、最盛期に7往復を誇った関西発ブルトレの代表格でした。
この頃はたった1往復ながら座席車「レガートシート」や1人用個室もつないだ賑やかな編成。しかしこれが最後の一閃というべきか、程なくしてもう一つの代表列車「彗星」との併結を経て2008年に廃止されます。
▲いずれも長崎 1998-4

「あかつき」の回送を見送った後は再度長崎電軌へ。
1日乗車券を買いあちこち乗り回してみますが、やはりスーツ姿では動き回るモチベーションも低空飛行です。












▲上・中:西浜町 下:観光通り いずれも1998-4

観光通り電停近く。
200形はその一派(211形・300形)を含め総勢26両の大所帯で、戦後の大型化に一役買いました。1950-53年生まれの最古参ながら、現在もその大半が第一線で活躍しています。




▲いずれも観光通り 1998-4

大浦支線の終点・石橋電停。
ここも線路両側にホームができ、周辺の風景と共に一変しています。

▲いずれも石橋 1998-4

新学期も始まったばかりだと言うのに周りは修学旅行生ばかりが目立ち、加えて動きにくいことこの上ない姿では撮影意欲も名物を食べ歩く気力も失せてしまい、このまま長崎空港から帰途に就きました。

あれから長崎とも四半世紀のご無沙汰、この間低床車のデビューが続き都電OBはおろか初代軽快電車も引退してしまいました。今なお現役を張る200形の陣中見舞いと「家族孝行」を兼ねて再訪の機を窺ってはいますが、訪日客がこうも多くてはちょっと逡巡です。
▲長崎駅前 1998-4

2024年8月25日

鉄道少年のガラクタ写真箱 その2

▲ナハネフ22「ゆうづる1号」 上野 1975-1

溜まりに溜まったフィルムを全部データ化しようと思い立って早10年。
スローペースながら初期のカラーネガは8割方終了、しかしこれより数倍多いモノクロやリバーサルフィルムは5割方とまだまだ頂上は見えません。

・・・ならばお気に入りのコマだけ選定すればよいものを、「1本丸ごとデータ化 → 画像ソフトで納得いくまで修正 → 1枚のカットからトリミングや色調を微妙に変えた派生カットを量産」を繰り返すものだから、不効率この上なしです。

しかも、最近はそれまで見向きもしなかった「かつての没カット」にも手をつけたものですから、不効率に一段と拍車がかかってきました。
まあ押し付けられた仕事でもなし、マイペースでやれば良いとは分かっているものの、どうも生きているうちにめでたくデータ化完了とはいかなそうです。

▲何十回も通った上野。右端には「DISCOVER→JAPAN」の広告塔 1974-8

・・・という訳で、今回は失敗作カットに陽を当てるシリーズ第2弾、1975.3大改正前夜の東京・上野からです。

75.3改正では東京口から20系の大部分、「あさかぜ」の一部と「瀬戸」を除く全てが24系化。鉄道誌はこぞって特集記事を出し、当時の鉄道少年らはこれらを貪り読みながら落ち着かない日々を送っていました。

ようやく陽が差し始めた7:00、上り列車の先陣を切って「出雲」が到着です。この日は遅れが出たせいか、縄張りの12・13番線ではなく7番線に滑り込みました。



▲いずれも東京 1975-1 

改正を間近に控えた日曜日、東京駅はコンパクトカメラを携えた鉄道少年でごった返していました。定番機はオリンパスペンやコニカやフジカ、リコーオートハーフ、コダックポケットカメラといった陣容で、一眼レフはまだまだ高嶺の花でした。

これらコンパクトカメラは単焦点の広角レンズ(28mmや35mm)が大勢で、みんな勢い車両に近づくせいか彼らが写り込んでいるカットばかり。しかし後になって見返すとこうしたカットの方が楽しく感じたりします。




▲いずれも東京 1975-3

修学旅行カラーの167系も健在。
155系と共に臨時急行「おくいず」によく充当されていました。ローカル運用には大目玉・非冷房の111系もいます。伝統の急行「東海」は153系ばかりでした。



▲いずれも東京 1975-3

最長急行「桜島・高千穂」が静々と入線してきました。
これから28時間を超える途方もない長旅の始まりです。中学時代、「鉄道ジャーナル」誌に載った乗車ルポに触発され「いつか乗ってやる」などと意気込んだものでしたが、叶わぬ夢に終わりました。


盗難防止のためでしょうか、愛称版は職員のお手製と思しき厚紙製。途中、風で飛ばされないのか変な心配をしてしまいます。

これらのフィルム原版は猛烈な露出アンダー。銀塩時代にはとてもプリントできる代物ではありませんでしたが、オソマツ写真をこうしてお披露目できるのもデジタルの恩恵です。






誰かが悪戯でひっくり返したのか、「急行」と手書きされたサボの裏面にはこちらが出現。どうやら廃品利用だったようですね。
▲いずれも東京 1975-3

一方の上野口。
劇的な変貌を遂げた東京口に比べ、こちらは1978.10改正までの「つなぎ」といった程度の小規模な変化でした。181系もしばらくは安泰です。


▲いずれも上野 上・中:1975-3 下:1975-7

かつて「ディーゼル王国」と称された千葉局各線も、この改正を機に全てが電車化されます。循環急行「なぎさ」「みさき」が廃止になるのと引き換えに、「内房」「外房」が登場しました。

▲いずれも両国 1975-3

こちらは改正後の両国。
劇的な変化に車両が追いつかなかったのか、当初は非冷房の153系も充てられ乗客には不評を買いました。



▲いずれも両国 1975-7

いつからか、「上野・東京を発着する全ての特急列車、且つ全ての形式をコンプリートする」なんて目標を立てたものだから、この両駅では似たようなコマを大量生産することになりました。遠目に見ればヘッドマークやヘッドサイン以外どれも同じにしか見えません。

しかし、ヘッドマークやヘッドサインへの憧憬というか、蒐集アイテムとしての地位は未だに不動であると思っています。その証拠にこれらをデザインしたグッズは未だに至る所で見かけるし、鉄道少年をはるか昔に卒業したオッサン達にとって、ヘッドマーク・ヘッドサインはまるで親しんだ駄菓子のように切っても切れない縁なのでしょう。
▲上野 1975-1