2024年4月20日

下町と昭和デンシャ

 ▲東武鉄道モハ8577ほか 亀戸水神-亀戸 2023-10

「東武の代名詞」といえば管理人世代だと特急車はDRC、そして通勤車は8000系になるでしょうか。一時はどこに行ってもウンザリするほどやって来た8000系列、しかし最近は野田線や支線区でも世代交代が進み、いよいよ先が見えてきました。

73・78系が第一線で現役だった時代は結構な頻度で通っていた東武線ですが、この10数年はすっかりご無沙汰です。ここは野田線の動態保存車といきたいところ、しかし中途半端に遠い上にたった1本を追い駆けるのも敷居が高く、先ずは現役メンバーを押さておこうとお手軽撮影を決め込むことにしました。

▲堀切 2024-3

という訳で、44年ぶりに堀切で下車してみました。
乗降客は少ないし急カーブした構内が絵になりますから、ホームを行ったり来たりしながら変化球アングルを狙ってみます。

10000系も2代目りょうもう号も、考えてみれば30余年選手。
特に200系は後継車が幅を利かせてきたし、引退の足音が近づいてから慌てて出向くという愚を繰り返さないためにも、ここはリキを入れて押さえておきます。
▲いずれも堀切 2024-3

こちらは1980年の堀切。
73・78系は遠く伊勢崎まで出張していました。この駅独特の雰囲気というか空気感は変わっていないですね。

▲いずれも堀切 上:1980-5 下:1980-12

次は曳舟で下車、最近ハマっている古い商店街めぐりです。
関東では数を減らしたりリニューアルされて別物に変貌したりしていますが、この辺りは下町の雰囲気が色濃く残っています。観光地によくある「なんちゃって駄菓子屋」ではない、本物の駄菓子屋さんも店を開けていました。
▲いずれもキラキラ橘商店街 2024-3

古い家並みとスカイツリーという不思議な風景。
コロナ禍のせいかそれ以前からか、廃業したばかりと思しき店舗も多く身につまされます。


▲いずれも墨田区京島 2024-3

当てもなくふらついていると、偶然この踏切に。
ここからは亀戸線に転戦することにします。
▲曳舟-小村井 2024-3

東あづまホーム先端から。亀戸線は急カーブが多く、これを強調してフレーミングしてみます。




▲いずれも東あづま 2024-3

こちらは別の日、亀戸から撮り歩いた際のカットです。
「緑亀」ことこのリバイバル色編成も、つい最近引退してしまいました。これを含め1950年代の試験塗装を3つも揃えるとは何とマニアックな、と思ったものですが上層部に相当な鉄道オタクがいたとしか思えません。どうせならオレンジ+クリームのツートンもここで動かして欲しかった。


▲いずれも亀戸水神-亀戸 2023-10

この時は京成金町線にも足を伸ばしました。
3500系の初期車は既に車齢50年超で、もちろん最長老。「パンダ顔」を始め諸処更新されてはいますが、角ばった昭和スタイルは結構好みです。まだ当分安泰と思いきや、設備投資計画によれば今年度から後継車になるであろう2代目3200系が登場するようで、一気に世代交代が進むかも知れません。
▲柴又-京成金町 2023-10







▲京成高砂-柴又 2023-10

学生時代、撮影対象とするデンシャは「戦前製かせいぜい昭和30年代製まで」決めてかかっていました。しかしそれらもほぼ全滅、今は「昭和顔プラス菱形パンタなら何でもOK」になり、カドが取れたというべきか守備範囲が寛容になってきました。

裏を返せば今風のデザインはどうにもうーむなものが多く、相対的にそれ以外なら何でも可となった訳ですが、この傾向は一生治りそうにありません。果たしてあと20年くらいカクカク昭和顔は見られるでしょうか。

▲堀切 2024-3

2024年4月10日

「じゅうかん」 最後の冬を行く

▲南部縦貫鉄道キハ102 野辺地-西千曳 1997-2

「じゅうかん」営業休止を間近に控えた1997年早春のこと、一度くらい雪景色を抑えておこうと鉄研時代のメンバーらと画策。訪問の度にお世話になった寝台特急「はくつる」下段をこの日も奮発、徒党を組んでの撮影行は何年かぶりでした。

列車での訪問のハードルがめっぽう高い当線。
しかも真冬となればその高さは一気に上昇しますから、どうしても二の足を踏んでしまいます。この日は青森勤務だったメンバーが飛ばす四駆に便乗させて貰い、水を得たナントカのようにあちこち撮り回ることができました。
野辺地-西千曳 1997-2

新雪の上を滑るように、快走ならぬダンダンと独特の律動で走るキハ102。小さな体躯に巨大スノープラウが厳しいモーターカーも出動して来ました。
▲後平-坪 1997-2



▲いずれも西千曳-後平 1997-2

坪川駅前の小高い丘から。
夏場は草が深くて立ち入れませんが、この時は三脚を杖にして昇ってみました。


▲坪川 1997-2

300mmを付けたサブカメラに持ち替えて追いかけます。
▲坪-坪川 1997-2

午前の運用が終わって一休み中のキハ102。
もしやと期待していたキハ104の出番はなく、ちょっとガッカリです。営業休止間際に殺到した鉄オタ軍団(自分らもですが)をレールバス1両で捌き切れず、続行運転で出動したと後で聞きましたが、何とも皮肉な役割ではあります。
▲いずれも七戸 1997-2

午後の2番列車が来る頃にはもう薄暗くなって来ました。
▲営農大学校前-盛田牧場前 1997-2

野辺地行の最終列車を見送って1日目は終了。
このまま青森に向かうのか野辺地に泊まるのか、同業者らで満員御礼です。

▲七戸 1997-2

十和田市の安宿で集団合宿をした翌日は、生憎の鉛空。
前日と同じ西千曳で構えてみますが、露出が稼げずモノクロに切り替えです。この日も始発から超満員でした。
▲野辺地-西千曳 1997-2


最後のコマはこちらのアップダウンで構えます。
これにて最終回が終了、すぐ後ろにある坪駅ホームに一同集合し、記念撮影をして打ち止めにしました。

さて、「じゅうかん」を語る上で欠かせないのが新幹線アクセス。
これを夢見ながら延命を繰り返してきた当線も、国鉄清算事業団から借用していた野辺地-西千曳間の敷地買取の見通しが立たず、ついに今回の休止に追い込まれます。敢えて廃止にしなかったのはまだ新幹線への希望を捨てていなかったとされていますが、仮に用地問題をクリアできたとしても、車両も施設もとっくに限界を超えている上に、新幹線駅まで新線をつなぐ莫大な資金はどうする算段だったのか・・・これは今も疑問です。



▲いずれも後平-坪 1997-2

2024年3月30日

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その2

▲東京急行電鉄デハ3478ほか 蓮沼-蒲田 1981-2

田舎高校を出て上京して半年、4畳半下宿の貧乏学生生活も板に付いてきた頃。
今考えると、思いつきで被写体になり得るデンシャは山のように転がっていた時代、しかし残念ながら腰を据えて撮り回ったのは数える程度という体たらくです。あまりにも当たり前すぎて被写体にすること自体考えなかった上に、首都圏の通勤車にカメラを向ける者が殆どいなかった事情があるかも知れません。

数少ない記録は何かの道すがらか、所属していた鉄研の同期生に誘われて出向いた時の成果物くらいながら、塵も積もればナントカで結構な枚数が貯まってきました。という訳で、先日に続き第二弾をアップしてみます。


▲小田急電鉄デニ1303 東林間-中央林間 1980-5

先ずは京急です。
鉄道少年時代から縁が薄く、品川でスナップした程度の記録しかありませんでした。この時は沿線の鉄研メンバー宅に転がり込み、残り少なくなった吊り掛け車を撮り歩いてみました。

デハ500形は戦後初の2扉セミクロス車にして赤・黄ツートンカラーの嚆矢。管理人世代に馴染み深い湘南顔も、この形式から採用されました。



▲上:屏風ヶ浦 下:京浜富岡 いずれも1981-2

デハ500形の通勤車版・デハ400形は1953年にデハ600形(初代)として登場。これに限らず、京急は同形式名で2代・3代がいるので非常にヤヤコシイです。

▲横浜 1981-2

次は東急です。
地上時代の田園調布駅はどこか長閑な雰囲気。8090系は登場したばかりで、これが秩父や富山地鉄を走ることになろうとは想像もできませんでした。


▲いずれも田園調布 1981-2

同じ東急でも、デハ3450形を始め往年の名車が第一線で闊歩していた目蒲・池上線は結構な数をこなしています。もちろん旧型車オンリーですから、1時間も粘るとフィルム1本くらい直ぐ終わるし、それ以前に直ぐに飽きてしまう。たった1編成のデンシャのために丸1日かける今とは比べるべくもない贅沢さでした。


▲いずれも蓮沼-蒲田 1981-2

東横線では6000系やデワが最後の活躍。
沿線風景はどこも全く別物に変貌してしまいましたが、この辺りは特に喧しいのではないでしょうか。6000系の独特のモーター音、録音しておけば良かったと後悔しきりです。


▲いずれも田園調布-多摩川園 1981-2

西武線は赤電全盛期。
一方で貨物やクハ1411形が終焉を迎えようとする頃で、西武線マスターの同期生の尻にくっ付いてはあちこち出没していました。
















▲上:東伏見-武蔵関 1981-2 中・下:いずれも西所沢 1980-5

一方の国鉄は、ちょうど旧型国電が終幕を迎えようとする頃でした。
もう「ありふれた風景」ではなかったですから、上京した1980年から鶴見線・大川支線や南武線・浜川崎支線、配給電車などはかなりの頻度で撮っています。

こちらはその年の暮れ、浜川崎支線17m車の廃車回送。
同じく引退する中原区や豊田区のクモハ40を従え、自らの足で死出の旅に向かいました。
▲立川 1980-12

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その1 →→→ こちら

当たり前すぎて気にも留めなかった風景、当たり前でなくなる日が必ずやって来るのは自明の理。しかし、最近これがやたら早く訪れるようになったと感じています。20年後に生きているかどうかは霧の中ですが、果たして「今の当たり前」はどう変貌しているでしょうか。
▲いずれも大崎 1980-5