2021年5月8日

午後の目蒲線


▲東京急行電鉄デハ3471ほか 沼部-鵜の木 1981-1

いつも小ブログをご覧頂き、ありがとうございます。
長い間お休みしてしまい、申し訳ありません。

体調やら何やら相変わらずですが、鉄分とは切っても切れない縁の管理人、本日から至極ゆるゆるとながら再開致します。引き続き、宜しくお願い致します。

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「気が向いたので午後からぶらっと」撮りに行けるデンシャというのは皆無になった昨今。
近くでは東急8500系やメトロ7000系などがSNSなどで人気ネタのようですがどうにも食指が動かず、ここら辺は昭和の電車がまだまだ現役の関西に分があります。

管理人の学生時代、ぶらりと行ける筆頭格はこちら、東急目蒲線・池上線でした。
一部が不細工に改造されているとは言え、数多くの戦前型が全く普通に動いていたので、構えなくても気軽に狙えるのも魅力です。


▲デハ3472ほか 沼部-鵜の木 1981-1

1981年冬、この時は期末試験を間近に控えた頃だったでしょうか、気晴らしに夕方近くから出掛けたように記憶しています。何故この駅で降りたかは忘れましたが、目黒から乗り込んで適当に降りたのでしょう。

デハ3450形一派(3450・3500・3650形)については今更あれこれ言うまでもありませんが、50年以上も他社に転じることなく、第一線で活躍し続けた大御所。

同じ3000系列でも3100・3400・3600などが次々に全国に散ったのに対し、頑丈さや使い勝手の良さが幸いしたのか、青ガエルを押しのけて縄張りを守り続けました。

3500形の仲間ながら、早くからノーシル・ノーヘッダ車体に変身したデハ3508。
3500形は1975年から「海坊主化」が始まり瞬く間に全車に波及しました。彼らが来るとガッカリしたのも、今となっては贅沢ですね。


▲いずれも目黒 1981-1

こちらは半年ほど遡った頃の目黒駅。
メンバーは殆ど変わりませんが、間もなく名鉄に嫁ぐ3700形もいました。

▲いずれも目黒 1980-5

既に陽が傾き始めていたのであちこちには移動せず、沼部駅の近くの踏切へ。
デンシャの運用は運次第、この日の在来車は海坊主が目立ちましたが、それでも合間を縫って3450形もやって来ました。




移ってきたばかりの7200形。3連は何とも物足りません。


東横線から都落ちしてきた青ガエルもやって来ます。


季節柄、建物の影が掛かりすぎて何とも撮りにくい。
まあ、急に思いついて来てみただけだし、肩肘張らずに続けます。電車との距離感もほど良く、このユルさが何とも心地良いですね。

何時間も前から場所取りをし、2台3台の重装備で一瞬を切り取るのは違う、鉄道写真の原点であるような気がします(大袈裟ですが・・・)。


▲いずれも沼部-鵜の木 1981-1

こちらは一派がいよいよ最期を迎えた頃。
この時も何か野暮用のついでに撮った気がします。

一部は1950年代のカラーに「TKK」のロゴを纏った姿で有終の美を飾りました。
張上げ屋根・下ライトのクハに、この衣装は違和感が否めませんでした。




▲いずれも蒲田 1988-12

2021年4月25日

お知らせ~しばらくお休みします

▲小野田線クモハ42006 雀田-浜河内 1992-12

いつも小ブログをご覧頂き、ありがとうございます。

中高年の宿命と言いますか、管理人の健康状態やら最後までコキ使う職場やら・・・その他諸々のことがありまして、更新ネタ作成の余裕がなくしばらくお休みを頂きます。

いつも訪問下さっている方には申し訳ありません。
この連休中に少しは充電できるかと思います。

現世全体が大変なことになっていますが、皆様もどうかお健やかに過ごされますよう。
引き続き小ブログを宜しくお願い致します。

▲同和鉱業片上鉄道キハ303 中山-清水 1989-2

2021年4月11日

五城目駅のスナップから

 ▲秋田中央交通 五城目 1967-5

手元にある過去の記録から、本日は五城目駅をアップしてみます。
車両はほとんど登場しませんので、ご承知置きのほどを・・・

秋田中央交通は現在でこそ県内の主要バス事業者ですが、1969年までは泥濘地の上をデワやEBが牽く珍奇な列車が闊歩する路線がありました。

1950年に電化していながら最後まで電車を持たず、非力なB型電機や年代物のデワが国鉄キハ04形改造のナハフを牽く、と図は他に例がないのではないでしょうか。


▲五城目駅全景 1967-5

冒頭に続くコマは現像ミスか天候のせいか、ひどくピンボケに加えてトーン崩壊がひどく修復には限界がありましたが、駅頭の風景はこんな雰囲気でした、というのは伝わってくるかと思います。

唯一アップで撮られた車両は風変わりなラッセル(?)だけでした。隣にいる元越後交通のEB111と手をつないでいるようです。



▲いずれも五城目 1967-5

さて、最初のコマ。
時は昭和40年代初頭、さすがに「ねんねこ半纏」ではありませんが、子守唄が聞こえてきそうです。管理人が子どもだった時代にはどこでも見られた風景、しかし現在は絶滅種です。

翻って現在、電車内を見渡すと子どもよりスマホに夢中(しかも夫婦揃って)なんてのが目に付きます。まあ、そういう自分も車内でFBやらインスタやらに投稿している訳ですから、同じ穴のムジナでありますが。
▲EB111牽引列車が最後を飾りました

この駅舎ではこのような切符を買うことができたのですね。
果たして冒頭の親子は、どこまでの切符を手にして列車に乗ったのでしょうか。
▲小路線ながら切符はバラエティ豊かでした

2021年4月4日

小坂線の夏休み

▲小坂精錬小坂鉄道キハ2107 新沢-深沢 1994-8

1962年の改軌以来、DCもDLも新調されたメンバーだけになり、一気に地味な路線となった小坂線。三重連貨物を除けばこれといった目玉もなく、それとて国鉄形のDDにあとは片上線と同形のキハという陣容で、何とも物足りません。

小坂の鉱石を最短で運ぶための路線ですから途中の都邑を結ぶ目論見はなく、無人の山野を進むだけの沿線風景で、現地で人に会うことも殆どありませんでした。しかしヘソ曲がりの管理人はこの人跡稀な風景に惹かれ、何度か訪問する機会がありました。

▲茂内 1994-8

旅客営業最期の日まであと1ヶ月と迫った1994年夏のこと、前回の訪問で山深い雰囲気に惹かれた、新沢駅からスタートすることにしました。

辺りには数軒の民家があるくらいで何もありませんが、それでも大館行の時刻が近付くとチラホラと乗客が集まってきました。


▲新沢 1994-8

振り返ったカット。
本数は少なく2時間に1本程度ですから、僅かな列車には勢い力が入ります。


▲雪沢温泉-新沢 1994-8

こちらは唯一の交換駅・茂内。
貨物が減ったとはいえ、常時駅員のいる中間駅でタブレットの受け渡しもしています。

この日は三重連を期待してのことでしたが、夏休みで貨物がウヤであることに全く気付かない体たらく。勇躍下車すると、向かいホームにはタキ+コキの超ミニ編成がいるだけでした。


せめて何か成果物を残そうと、手持無沙汰そうにしている駅員さんに頼んであれこれ切符を所望してみました。

駅員さんもやはり退屈だったのか事務室に入れてくれ、麦茶をご馳走になったりタブレットを撮らせてもらったりして、しばし休憩です。

▲いずれも茂内 1994-8

続いては絶滅危惧種になっていた腕木信号機との組み合わせを狙います。
真夏の炎天下、やって来たのはDD13単機。貨物があれば三重連になるハズでした。

▲茂内-篭谷 1994-8

続いてやって来るキハを駅の反対側で。
▲深沢-茂内 1994-8

こちらは雪沢温泉駅近くです。
雪沢温泉は駅前に鉱泉と数軒の民家がある以外、田圃と山々しかありません。

生活の匂いはなく殺風景と言えばそれまでですが、この日本離れした風景が退屈な車両を補って余りある役割を果たしています。軽便時代はこの近くの小雪沢で機関車の交換をしており、ホーム跡も残っていると聞いてきましたが見つかりませんでした。


▲いずれも雪沢温泉-新沢 1994-8

最後にこの駅を一覗きする頃には薄暗くなっていました。
この駅舎は現在も残っています。


このキハに乗って帰途に就くことにしました。
▲いずれも小坂 1994-8

旅客列車の終焉まであと1ヶ月と迫る中、少しは「葬式鉄」がいるだろうとの予想は外れ、この日も一人の同業者にも会いませんでした。

翌月、役目を終えたキハ2100は弘南鉄道黒石線で第二の職を得ることになります。
しかし同線は1998年春に廃止、ここでの活躍は僅か4年足らずでした。



▲上:一足早く廃止された花岡線と共に 下:キハ2107車内 1994-8

2021年3月28日

和歌山鉄道と和歌山電軌

▲和歌山電気軌道モハ601 伊太祁曽 1961-5 

戦前戦中、大都市圏近郊の中小私鉄には吸収合併の大波が押し寄せ、同時期の国策がこれに
拍車を掛けました。

一方で、この波に乗ることなく独立を保つも、戦後も落ち着いてきた頃に大手に吸収された例というのは余り多くありません。奈良電や信貴生駒電鉄といった、のちの近鉄各線が思い浮かびますが、現在の和歌山電鐵貴志川線もその一つです。

ルーツは1914年創立の山東軽便鉄道、しかし地誌などによると開業時から1067㎜軌間だったようで、31年に和歌山鉄道に改称。戦後のドタバタを乗り切りながらも57年に市内電車事業者の和歌山電気軌道に吸収され、更に南海に呑み込まれていきます。
▲こちらは市内線、三重交通神都線からやって来たモハ700形 公園前 1961-5 

和歌山鉄道は早くからガソリンカーを導入、戦中にこれらを電車に変身させ、珍妙な改造車など多彩なメンバーが闊歩する端緒を作りました。

こちらは1961年5月、事業者が和歌山電気軌道だった頃の記録です。
まずは和歌山鉄道時代のキハを改造したモハ202。似たような日車ガソリンカーのクハ化車は各地にいましたが、モハに化けた例は上田丸子や淡路交通くらいしか思い浮かびません。


モハ601は、阪急75形の車体に南海のブリル台車を組み合わせて誕生。
仲間にクハ602、603がいますが、こちらの前歴はそれぞれ似て非なる旧阪急63形、81形です。

▲いずれも伊太祁曽 1961-5

モハ605は野上電鉄でもお馴染みだった、旧阪神701形。旧阪急の台車を履いています。





▲東和歌山 1961-5

モハ201も和歌山鉄道時代のガソ改造車ながら、こちらは四角四面の電車っぽい車体です。
キハ時代の姿がちょっと想像できません。


片ボギーのクハ801は一見して旧芸備鉄道と分かる風体です。


▲いずれも伊太祁曾 1961-5

社名に応じて切符も変化しています。和歌山電気軌道時代は僅か4年足らずでした。

▲左下が和歌山電気軌道、それ以外が和歌山鉄道。それぞれ独自カラーを主張しています

こちらは南海時代。末期まで車掌氏・窓口氏から買うことができました。
















▲一路線としては券種がバラエティ豊かです

さて、こちらは同時期の市内線です。
戦後まで独立を維持した貴志川線に比べ、市内線の沿革はこの上なく複雑怪奇。ここまで矢継ぎ早に統合や分離を繰り返して来た路線は、他に例を見ないのではないでしょうか。1904年に和歌山電気軌道(初代)として設立後は、大まかに書いただけでもこうなります。

和歌山水力電気(1905)→ 京阪(1922)→ 地場電力事業者(1930)→ 和歌山電気軌道(2代・阪和電鉄系)(1940)→ 同(3代・南海系)(1940)→ 同(4代・近鉄系)(1944)→ 傍系から独立(1947)→ 南海(1961)→ 廃止(1971)

501形は旧南海の木造車、モ50形。
鋼体化ながら高床・二重屋根の古めかしいスタイルで管理的に最も惹かれます。





▲公園前 1961-5

番号や前照灯が剥ぎ取られた跡が痛々しい単車、30形。
「急援車」は「救援車」の誤字でしょうか。前面を見ていると「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」を連想してしまいます。



▲いずれも車庫前 1961-5

短命に終わった連接車、2000形。
フィルムの痛みが激し過ぎ修復不可能なキズ・変色だらけ、見苦しいカットですが凄まじい数の「鬼架線」ですね。


▲公園前 1961-5

管理人が実見できたのは、もちろん南海になってからでした。
雑多な改造電車時代とは比べるべくもありませんが、当時の主役・1201形は名車といって良いでしょう。現路線はデンシャといい駅舎といい何ともうーむで、全く行く気が起きません。
▲和歌山 1989-10