2022年5月15日

野上電車の夜 その4


▲野上電鉄モハ31 登山口 1992-8

「フィルム本数の稼ぎ頭路線」第1位は、中小を押しのけて名鉄揖斐・谷汲線がダントツで、2位は野上電車。双方とも昭和初期の電車が最後まで現役だったことが最大の原動力ですが、無粋な改造を受けた名鉄と比べて野上はほぼ原型のまま、という点は大きな違いでした。

沿線風景は住宅地と田畑が混在する平凡さながら、変らぬ姿の阪神・阪急OBに加えて白熱灯だらけの駅風景がこれに花を添えていました。

1992年夏のこと、この日も早朝の日方からスタートです。
▲連絡口 1992-8

来る度に陣取るのは北山から野上中辺り。
沿線では最も開けた区間で、四季の変化が感じ取れる数少ないポイントです。

お気に入りの2両、うちモハ24は「チョコボール電車」に化け、最古参のモハ23も既に休車になってしまい魅力は半減。ただ朝晩の「阪神の明かり窓」ことモハ31コンビや、日中の単行に入ることが多くなったモハ25・27といったメンバーはまだまだ元気でした。
▲野上中-北山 1992-8

▲北山 1992-8

早朝から沿線を徘徊しているうちに、重根で夕暮れを迎えました。
ここから朝方の2連が再出動、終電まで運用に就きます。

▲いずれも重根 1992-8

辺りに夕闇が迫る頃、改めて全線を往復することにしました。
紀伊野上を過ぎる頃からすっかり暗くなり、数えるほどの乗客も途中でみんな降りてしまいました。登山口から折り返し列車に乗り込んでくる客もなく、モハ31+32が寂しそうに発車を待ちます。
▲登山口 1992-8

発車時刻が迫っても、誰も乗って来ませんでした。
駅前のバスはとっくに終わってしまったでしょうし、メイン通りに開いている商店も酒場もなく、あとは遠く民家の灯がポツリポツリと見えるだけでした。

▲いずれも登山口 1992-8

一人、モハ31に乗って北山で下車。
ホーム脇の電柱に、裸電球がポツンと点いていました。



▲いずれも北山 1992-8

北山から次列車のモハ24に乗って帰ることにします。
無人電車だったのが、途中から一人二人と乗ってきた時は少しほっとしました。


▲いずれも重根 1992-8

日方で上り最終電車を待ち構えて終了。
僅かな乗客が駅舎から出るや、いきなり構内の電気が全部消されたのには仰天してしまいました。



▲いずれも日方 1992-8

野上電車の夜 →→ その1 / その2 / その3

杜撰な経営体質と廃線間際の騒擾ばかりが話題になり、その度に暗然とした気分になりがちな野上電車。しかし、この頃はまだ至って長閑で、平和なローカル線の印象しかありませんでした。

▲紀伊野上 1992-8

2022年5月6日

「デワ」のスナップに寄せて



 ▲松本電鉄モハ10形 1963年

1960年代前半までの松本電鉄には、生抜きの古強者を始め信濃や西武、京王OBといった多彩な木造車が闊歩していました。

しかし時あたかも日車標準車体が誕生、格好の標的となった彼らは、あっという間にこれに載せ替えられて画一化が完了してしまいます。加えて1973年に貨物列車が廃止されWHのED30も昼寝の日々に、これでは鉄道好きの食指も動きません。

▲アルピコ交通の現在も硬券は健在

▲電車の画一化と浅間線廃止は同じ頃だった

・・・という訳で、今回は手元の古い記録からこちらをお送りしてみます。

ED40形はまだ誕生しておらず、当時唯一の事業用車だったデワ2。
古いワムかワフを適当に改造したような印象ですが、元は1918年天野工場製・伊那電デワ5という由緒正しい車でした。先輩格のデワ1は、ワフ化改造を経て早くも1955年に廃車されています。



▲いずれも新村 1963年

初めて自分で乗ったのは1976年の夏休み。
夜行急行「妙高5号」で上野を発ったのを皮切りに、長野→松本→名古屋→東京と「大回り一筆書き」の道すがらのことでした。この時は新村で保管されている旧甲武の「ハニフ1」を見るのが主目的でしたが、専用の車庫で鎮座しているのを瞥見できただけでした。


▲いずれも新村 1976-7

2回目の訪問は1985年春、日車標準車体にも引退の噂が流れてくるようになった頃。
休日だったせいか車庫には誰もおらず、ハニフとの再会は叶いませんでした。




▲いずれも新村 1985-4




▲いずれも新村-三溝 1985-4

ところで冒頭のフィルムには続きが写っており、こちらもお目にかけます。
1955年、当時の松本市長から邪魔者扱いされてからも、しばらく持ち堪えて余喘を保った浅間線ですが、襲来する車社会に抗し切ることは出来ませんでした。廃線は64年、ちょうど上高地線の電車たちの車体載せ替えが終了するのと同時期でした。



▲いずれも横田 1963年

日車標準車体から東急青ガエル、次いで井の頭線3000系。
しかもうーむな装束に改造され趣味的には余りそそられない電車の変遷が続き、この3月からは東武20000系が20100形として再就職しています。

しかしあの変貌ぶりを見ると、果たして訪問する日は来るかどうか・・・「アルピコ」社紋の入った切符の蒐集だけでは物足りなく、ちょっと決断できない昨今です。


▲新村 1985-4

2022年4月26日

貴志川線の夏

▲南海電鉄モハ1241 山東-大池遊園 1992-8

1980年代、関西大手私鉄では近代化が一段落して戦前型もほぼ壊滅、残るは南海貴志川線だけになっていました。中小ローカルに比べると、古い電車と言えども大手はどうも二の次になってしまう管理人、これまで近鉄伊賀線や内部・八王子線は訪問したものの、いずれも中小路線めぐりの道すがらでした。

1992年夏のこと、この時も野上電鉄を散々撮り回った後の寄り道。
たまには少し時間を掛けようと、珍しく丸1日を費やすことにしました。

▲上:野上電鉄モハ31 下:モハ24車内 いずれも1992-8

さて和歌山に投宿の翌日、早速スタートです。
1201形は80年代半ばから前照灯ブタ鼻化や窓のHゴム化が進み、ちょっと不細工になりました。


▲和歌山 1992-8

▲最後まで手売り切符があった

先ずはこちら、初めて定番撮影地・大池遊園で降りてみました。貴志川線では唯一、山間の雰囲気が切り取れる区間です。


▲いずれも山東-大池遊園 1992-8

続いては大池の袂からお決まりのカット。
既に先達の作品で散々見てきたせいもありますが、屏風絵のようなちょっと「出来過ぎ感」が否めないですね。



▲いずれも山東-大池遊園 1992-8

ド定番過ぎて直ぐに飽きてしまい、駅の反対側へ。
こちらは視界は開けていますが、山東側と違って住宅地が迫ってきています。

▲いずれも大池遊園-西山口 1992-8

大池遊園は元有人駅。
この位置から振り返った場所に駅舎があった筈ですが1枚も撮っておらず、あまりそそられる建物ではなかったのかも知れません。

▲いずれも大池遊園 1992-8

伊太祁曽で列車交換。
モハ1201形は総勢70両超を誇った主力でしたが、1973年の昇圧時に揃って本線から撤退、取り残された貴志川線が最後の牙城になります。仲間のうち28両が近くの水間鉄道(12両)と京福電鉄福井支社(16両)へ再就職、長く余喘を保つことになりました。






伊太祁曽駅舎。
山小屋風の駅舎は和歌山電鉄となった現在も残っています。


▲いずれも伊太祁曽 1992-8

伊太祁曽に到着するモハ1218。
暑さにめげたのか同じ電車が行ったり来たりに飽きたのか、まだ明るいですがこれに乗って帰途に就くことにしました。
▲伊太祁曽 1992-8

さて現在、ビミョーな変貌を遂げている貴志川線。
そうは言っても、「たま駅長」やビミョーな電車といった誘客装置が追い風にならなければ廃線になっていたかも知れないのですから、あまり悪くも言えません。

しかし、猫好きとしては「ニタマ駅長」にはそそられるものの、某デザイナーの手に成る「度を超えたいじり過ぎ電車」「スーパー何だこりゃ駅舎」を見ると全く訪問する気が起きません。事業者としては一部の鉄道好きよりも、広く一般利用客の方を向かなければなりませんから、それも仕方ないのでしょうけど。
▲伊太祁曽 1992-8