▲越後交通ニフ20 長岡 1974-8
さて、長岡駅を発車したモハ207他3連はあっという間に2つ目の下長岡に着きました。
下長岡車庫は、長岡にあった「フシギ車両生産工場」が1967年に移転してきたものです。
先ほど乗ったモハ207が入庫してきました。早速点検が始まります。
モハ207は草軽からやってきたモハ100形を自社で垂直カルダンに改造した車です。
▲モハ207 下長岡 1974-8
唯一の電機は1949年日立製のED51です。貨物輸送は既に廃止されており、除雪・工事用として待機していました。
貨車も2両いました。限られたフィルムで、1枚に収めようとしてこんな撮り方をしています。
ワ12は倉庫代用。屋根に付けられた通風用のモノが懐かしいですね。
これで栃尾線は終了、長岡に戻ります。
現在なら1日どころか1週間粘りたい心境ですが、「あれもこれも」の早回り旅ではそうも行きません。次の目的地、蒲原鉄道や新潟交通を目指します。
加茂で客待ちの蒲原鉄道モハ61。旧武蔵野車で、まだワンマン化されていませんでした。
▲モハ61 加茂 1974-8
新潟交通クハ45+モハ16。こちらもまだツーマン時代です。
その後長岡まで戻り、関東では見られない特急「北越」「白鳥」などを押えます。
これにて終了、急行「佐渡」で帰ることにします。夏休みの長い1日が終わりました。
ここで「長岡線はどうした!」とツッコミが入りそうですが、残念ながら時間の余裕がなく行けませんでした。蒲原や新潟交通は後回しにすべきだった・・・と何度悔やんだことか。
でも当時にしてみれば全てが初めてでしたから、バス移動を避けて行程を組んだ結果でしょうか。結局、長岡線は貨物専業となった後も機会に恵まれないまま終わりました。
▲越後交通 長岡 1974-8
こんばんは。
返信削除貨車の表記がニフではなくニラと読んでしまいました。
でもとってつの電車はどこかスマートで洗練された印象ですね。
クハ100型も個人的には営団1700っぽい印象を受けます。
でもこの時代の新潟や蒲原はまだまだ活気があった頃ですね。
新潟交通では準急が走っていた時代でしょう。
長鉄も悔やまれますが、今は亡き両方とも訪ねて正解だったと思います。
宵闇さん
返信削除いつも暖かいコメントありがとうございます。
電車や客車は番号しか表記がないのに、貨車だけしかも縦書きというのは不思議な気がしますね。
このニフ20(「ニラ」には思わず笑ってしまいましたが)は倉庫代わりでしたので、全線廃止後も暫く置いてあったようです。
クハ100形は下回りは中古品ですが車体は完全な新品、異国的なスタイルで個人的に好きな車です。
新潟交通や蒲原は貨物も走っていた頃で、撮影はしていませんが荷の積み下ろしなどもしていて晩年より賑やかだったと思います。
とってつを初めて知ったのは70年頃でした。
返信削除CTCや総括制御を採用している先進的軽便電車と紹介されていたのでこんなに早く廃止になるとは思いませんでした。
後で知ったのですが、合併した頃から赤字になっていて、上記近代化も経費節減が目的だったようです。
朝日新聞社発行の世界の鉄道'74で個々の車両について知りましたが、部分廃線後の発行にかかわらず部分廃線時に廃車になった車両もとりあげていました。
デッキ付のモハ209などの個性的な車両に会えることを楽しみにしていましたが、訪ねた時は廃車済でがっかりしました。
クハ100形は小坂鉄道の客車から流用したTR11風の台車を履き塗装と相まって軽便西武電車のようでした。
この頃は新潟県にはまだまだローカル私鉄が残っていましたね。
他の北陸3県と違って、3セクのほくほく線と並行在来線以外は全滅したことは残念です。
細かいことで申し訳りませんが、「北越」の車両は自連がむき出しなので489系と思われます。
三等急電さん
返信削除栃尾鉄道時代からここは冒険心に富んでいたというか、新技術導入や新車製造、変わった改造などを次から次へと繰り出していましたね。もっと早い時代に訪問された先人の方々が羨ましいかぎりです。
機関車のような、いかめしいモハ209は私も好きな車両の一つです。73年の部分廃止の際、総括制御車への統一に伴って多くのゲテモノ車両たちと運命をともにしたのは残念でした。クハ100形はこの当時は完全な新車とばかり思っていましたが、湯口徹さんの著書で何とも可愛らしい台車を履いているのを見て初めて知った次第です。
特急北越の形式のご指摘、ありがとうございます(修正しました)。
489系は信越線にしかいないと言う思い込みで書いてしまいました。
限られたフィルムの駒数と限られた時間の中での早回り、みんなこの頃は同じですね。今考えると悔やまれますけど、そういう年代でしたね。
返信削除chitetsuさん
返信削除あちこち見たいものがあって、ちょっと覗いて「はい次」という回り方でしたね!
一箇所に腰を落ち着けて撮ったという記憶は余りありません。
逆に言えばそれだけ撮りたい対象が多くて恵まれていた、ということでしょうか。