2016年8月31日

足尾の夏

神戸駅▲足尾線 神土 1985-8

足尾線(現:わたらせ渓谷鉄道)に初めて乗ったのは1974年、まだ足尾銅山の閉山間もない頃。
地肌剥き出しの山々に打ち捨てられた採掘機械、無人の鉱山住宅と、キハ20からの車窓はあまりにも荒漠としたものでした。
その衝撃的な光景は子どもの眼にも焼き付き、最寄駅から桐生まで30分というお手軽さも幸いして幾度となく乗りに行くようになります。
桐生▲閉山直後の桐生にて 可愛らしいタムだが濃硫酸用 1973-8

わたらせ渓谷
▲大間々-上神梅 1985-8

しかし初めてマトモな撮影をしたのは1985年夏のこと、初乗車から10年が経っていました。
この日、まず向かったのは神土(現:神戸)。
跨線橋で構えていると、貨物列車が次々にやってきます。
銅山閉山後も輸入鉱石の精錬は続き、関連品の輸送用として運行されていました。
DE11
DE11,DE10

登山シーズンのせいでしょうか、国鉄時代としては珍しく臨時列車もやってきました。
神戸駅
メジャーな「こうべ」との混同を避けるため(混同する人いないと思いますが・・・)敢えて「神土」にしたらしいですが、本来の地名は現在のものです。
わたらせ渓谷
▲いずれも神土 1985-8

続いて渡良瀬川沿いのポイントへ。
渡良瀬川の水質は回復途上で、この頃はまだアユも棲めなかったと記憶しています。
キハ20
キハ20
▲いずれも上神梅-水沼 1985-8
 
足尾本山に向けて最後のダッシュをかけるDE11+DE10。
DE11
▲原向-通洞 1985-8

終点まであとひと踏ん張り、キハ20がやってきました。
▲足尾-間藤 1985-8

間藤で一休み中のキハ20。
結構乗りに来た客がいました。背後の山々には地面が露出した状態が残ります。
キハ20▲間藤 1985-8

鉱毒事件の重い歴史を忘れさせるような、長閑な夏の一日でした。
DE11
▲神土 1985-8

8 件のコメント:

  1. 高鉄局でも35系が全く入っていませんね。同年同月に利用しました八高線は35系オンリーでした。
    余談ですが群馬県内沿線の学校には関係者やマスコミ等大勢おり例の事故の大きさを、列車内からでもうかがえたものでした。

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  2. 12号線さん

    両方とも長大路線ながら、八高線だけキハ35ばかりだったのは不思議ですね。
    理由は分かりませんが、当時キハ20のお蔭で渡良瀬川沿いの風景を満喫できました。

    鉱毒事件については教科書などでは「日本最初の公害」と流される程度ですが、やはり地元では熱心に教えているのでしょうね。私の地元は事件で活躍した田中正造の生誕地ですが、「郷土が生んだ英雄」になっています。

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    1. 言葉足らずで申し訳ございません。八高線利用したのは1985/8/15です。
      その3日前の夕刻に発生しました、航空機墜落の件に関しての事となります。

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    2. 12号線さん

      補足ありがとうございます。
      日航機事故から早31年になるんですね。
      食い入るようにTVニュースを見ていたのがついこの間のようです。

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  3. 八高線も足尾線もどちらも高崎第一区持ちなので、足尾線にも晩年にはキハ30や35が入っている写真を見たことがあります。逆にキハ20やキハ40が八高線に入ることもあり、初めて八高線に乗った時はキハ45でしたし、八王子で如何にも場違いなキハ40を見たこともあります。足尾線3セク化後はキハ20と45は廃車、キハ40も間もなく他区に転出してしまったので、30,35,38だけになってしまいましたが。

    最初のタムのカット、隣の35t積み石油類専用タキ45000と比較すると、タム400の小ささが際立ちますね。タキ45000の主な積荷であるC重油と比較しても濃硫酸の比重は倍以上あるので、同じ荷重なら半分以下の容積になると言うのが良く理解できる?カットと言えそうです。私の世代だと、濃硫酸タンク車は、主なユーザーである非鉄金属製錬や石炭化学を取り巻く市場環境の変化で、事業所閉鎖と共に流転を繰り返したというイメージです。95年頃でも、各地に散らばったタキ車に、細倉鉱山や南岡山、釜石、八森、豊沼などとっくに過去の物になった常備駅の名を見ることが出来ました。因みに足尾の硫酸タンク車は、借受車を別にすると、車齢の若いタキ29300形が小坂製錬と小名浜製錬に転用されたのみで、残りは酒田港の解体業者で最期を迎えました。

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  4. 足尾線、懐かしいですね〜!
    この時撮ったDE11の交換風景は印象に凄く残っています。
    後で考えるとこんなシーンは美祢線ぐらいでしか見ておらず、大収穫だった気がします。

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  5. 雪うさぎさん

    足尾線にキハ30・35が入ったのは見たことがなく、同じ高タカ一なのに不思議だなと思っていましたが、国鉄末期には走っていたんですね。これとは別の日にキハ40に乗ったことがありますが、30・35のロングシートはこの線には不向きですね。
    1枚目のタムを撮った頃は小学生の時でしたが、その小ささが目に留まり「1コマ何円」の時代にもかかわらず思わずシャッターを押しました。濃硫酸用のタンクは他に実見したのは末期の細倉鉱山くらいしかありません。

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  6. chitetsuさん

    早くも30年経過です(笑)。
    この当時は当たり前すぎる光景だったので特に意識していませんでしたが、今考えると1画面に3両のDEが写っているなんてことはスゴイことだったのかも知れませんね。
    こちらも当たり前だったキハ20も今や絶滅危惧種ですね。

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