▲蒲原鉄道ED1 村松 1975-7
さて村松に着くと唯一の電機、ED1が入換中でした。この頃は少ないながら貨物列車が健在で、国鉄貨車で主に米穀を運んでいました。
ED1はWH機と見紛うばかりですが、1930年・日車と東洋電気の合作になる純日本製。84年に貨物列車がなくなってからも、除雪用として全線廃止まで在籍しました。
▲いずれも村松 1975-7
ここでのお目当ては木造電車モハ21と2両の客車。どれも初見参のものばかりです。
車庫の一番奥で1列につながれていました。
どうやら3両とも既に戦線離脱しているようで、かなりくたびれた状態です。
まずは最も見たかったこちら、モハ21。残念ながら中間に入って前面は拝めません。
1925年製・旧名鉄モ450形で戦後間もなくやってきましたが、五泉-村松間の朝ラッシュ時の増結用に出動する程度で早くから予備車になり、79年1月に廃車になっています。
続いてこちら、ハ1です。
木造2重屋根ながら1926年製と新しく、「京浜車輛工業」という聞き慣れないメーカーの手になる、出自も経歴も未だ不明な点が多い車。
一番奥に鎮座していたハ2。
こちらは一見して戦前型ガソリンカーと分かる外見です。1930年・雨宮製ではるばる四国の阿南鉄道(現:JR牟岐線)からやってきました。
最期まで残っていた大きな木造車庫では、モハ31が点検中でした。
▲いずれも村松 1975-7
庫には他にモハ11・51や旧国鉄キハ04のクハ10などがいた筈ですが写しておらず、これだけ撮って満足してしまったようです。駅に戻ると、モハ12とモハ61がお客を待っていました。背後には改築前の旧駅舎兼本社が見えますが、これまた残念ながら記録していません。
このモハ12に乗り込んで加茂を目指します。
窓を全開にして風を思い切り浴びながら山里の風景を満喫しているうちに、あっという間に到着。当時としては珍しく、1路線でまる1日を費やした旅でした。これで「後は帰るだけ」状態となってしまい、上越線上り列車の客に。
しかし、帰る前にどうしても見ておきたいものがありました。
列車が長岡に近づくにつれ、俄かに鼓動が早くなっていきます・・・・
▲五泉 1975-7
蒲原鉄道、最終日には行ったのですが、村松駅は晩年と比べると駅舎が変わっていますね。
返信削除晩年の方がやや賑やかな感じもします。
モハ21も優雅な雰囲気が残っていて良いですね。
車庫に止まっている写真しか見たことがないので、走っている写真もと思ってしまいます。
この直後に生き別れになった兄弟車(モハ91)が入って来るとは思いも知れなかったですね。
しかもおまけにその車両に置き換わられてしまうとは皮肉なものですね。
宵闇さん
返信削除当時の駅舎は和洋折衷の味わい深い建物でしたが、確か81年に建て替えられたと記憶しています。
晩年はバスターミナルも兼ねていましたので、むしろこの頃の方が活気があったかも知れませんね。私もここから新潟行きの急行バスで新潟交通へ訪問したことがありました。
モハ21とは一期一会でしたので、このとき前面を拝めなかったのは残念でした。
名鉄時代の兄弟車、モハ91によって引退したというのは後で知りましたが、不思議な巡り合わせを感じました。このモハ91も85年の部分廃止で廃車になってしまいましたが、こちらの記録も機会を見てアップしたいと思います。
私が訪れた頃には、既に駅舎はビルに改築後でしたが、それでも所狭しと古い電車とバスの車庫が押し込まれた濃密な空間は依然魅力的でした。因みに旧村松駅舎のその後、モハ51と共に安田民俗資料館に移築保存されていますが、長期休館中で荒廃している様です…庄内湯野浜モハ3と善宝寺鉄道記念館と共に、大変残念なことでありますが。
返信削除モハ21は、最後に営業運転した鉄道線木造電車は何?という話題になると必ず出てくるようですが、この様子だともうほとんど動いてなさそうな感じですね。画像では検査期限は50-7となっていますが、次回全検を受けることは無かったのでしょうね。
蒲原ハ2は、相鉄がと別府ハフ7と三角トレードを画策していた、という話もどこかで聞いたことがあります。結局ハフ7の里帰りは別府廃止までお預けになりましたが、別府としては多少新しくて半鋼製でも、緩急車代用としてはデッキの無い蒲原ハ2に魅力を感じなかったのでしょうね。現にハフ5は予備的存在に甘んじていましたし。
雪うさぎさん
返信削除村松の旧駅舎が移築されているとは知りませんでした。
休館中なのは残念ですが、庄内交通の二の舞は避けて欲しいものです。
モハ21が走っている記録ですが、72年の鉄道ファン誌の不定期連載「電車をたずねて」で見たことがあります。確か五泉-村松の朝3連の先頭に立っていたと記憶していますが、この頃が最後だったのかも知れませんね。越後交通からモハ81が入って来たのがやはり72年、その後同車は3連運用に入ることが多く丁度モハ21と入れ替わりになった可能性があります。
蒲原ハ2に白羽の矢が立ったという話は初めて聞きました。
別府のハフは完全に車掌車代わりでしたので付随車では確かに意味がありませんね。
話は別ですが、私が別府を訪問したときはたまたまハフ5が動いていてガッカリしたことがありますが、逆に運が良かったということでしょうか。