戦後各社に散った国電のヌシ・63系。
その割当ての経緯や受け入れた各社の事情を探ってみると、興味深い話が尽きません。関東ではご存知東武の73系と相鉄3000系(割当時は大東急時代)、そしてもう一つは小田急1800系(同)がありました。
1980年初夏、この頃1800系は江ノ島線ローカルで最後の活躍をしていました。まずは中央林間近く、まだ雑木林の残るポイントで構えます。
当時の最新鋭は9000系ですが、主役はデハ2200・2400・4000ら小田急顔のメンバーです。
こちらも一時代を築いた元デハ1300形のデニもやって来ました。
続いて相模大野にほど近い築堤にて。
全金車体に機器類交換と新製に近い更新を受けていますが、独特の食パン型は遠目にもすぐわかります。
夕暮れ近い相模大野で見送りました。
こちらは秩父に移って間もない頃の姿。
貫通ドアの手前で塗り分けた秩父カラーは個人的には好みでしたが、1985年から黄色基調の新塗色に変わって行きました。
▲浦山口-武州中川 1980-5
小田急1700中間車も、事故焼失のロクサンを再起させたものだそうです。
返信削除晩年は寄居で元の仲間と再会する機会もあったのでしょうね。特に名鉄転籍組とか。
12号線さん
返信削除63系は粗製乱造というイメージがありますが、国鉄が総力挙げて造っただけあって相応の設備はありましたし、戦後輸送の大役を担った点で歴史的な電車と言えるでしょうね。
温泉特急の1700形に63の残党が使われていたとは知りませんでした。
名鉄で長続きせずに後で仲間入りした6両が、全車秩父で再開するというのも因果を感じます。
釣りかけ電車は好きですが、小田急1800って乗ったこともあるのに撮ったこともあるのに、東武ナナハチに比べるとあんまり印象がないです。。。クリーム色の塗装はカルダンの方が映えますね。
返信削除追伸
下から2枚目の写真ですが、現在は立ち入り禁止です。
D誌にC58の撮影地と紹介されてから枝を折る人が出てきた。。。らしいです。立入禁止になってから10年以上経つので木が生い茂ってもう撮れないと思います。
maru-haどの
返信削除東武は73系と後継の78系が一大勢力になったので存在感がありましたが、こちら20両ちょっとだったので影が薄いんでしょうね。小田急顔ばかりの中でこの食パン型は一段と異彩を放っていたので、個人的には好みでした。
浦山口のポイントは立ち入り禁止ですか。川原に降りて見上げるしかないんでしょうか。
テツによって撮影地が減っていく自滅行為にはちょっとウンザリですね~!
こんにちは!
返信削除小田急は沿線民なので、小さい頃1800系は見た記憶はあります。
しかし幼稚園児だったので追いかける事もできずに終わってしまいました。
でもその分グリーンマックスのペアキットをよく組み立てた事を覚えています。
その頃からコテコテの釣り掛け好きだったので4000系は大好きでした。
小学校時代、電車通勤だったので小田急4000系は毎日好んで乗っていました。
周りの鉄道ファンは特急とかブルトレ好きが大半だったので、すごい白い目で見られていじめられた事もありました。
宵闇さん
返信削除こんにちは。今回も訪問ありがとうございます。
4000形は戦前のモータに新造車体・台車という異色の組み合わせで、乗って楽しい電車でしたね。
この後しばらくして新性能化・冷房化されて5000形と見分けがつかなくなりましたが、「小田急顔」の代表格という印象です。学生時代に所属していた鉄研が小田急線にあった関係で、私も随分とお世話になりました。