▲長野電鉄モハ1003 須坂 1976-7
一時期、長野県の三私鉄に棲息した東急5000系。
その入線前夜の1976年、この年の夏休みは上野から長野・松本・名古屋を巡り、新幹線で舞い戻るという「一筆書き大回り旅」を企みました。急行「妙高5号」で早暁の長野に降り立ち、始発電車を待って須坂駅へ向かいます。
2500形デビュー前の長電は、開業時からの猛者らが闊歩するまさにデンシャの楽園でした。まず出迎えてくれたのは信濃鉄道木造車を鋼体化した1100形。長電きっての大型車でしたが79年に引退、遠く豊橋や伊予鉄へ嫁いで行きます。
この時は見掛けなかったモハニ130形は兄弟車です。
深い屋根が印象的な「川造型」の600・610形。
引退後は3両の仲間が上田交通へ再就職し、1986年の昇圧時まで活躍します。
4番線ホームの片隅から発着するのは元東武の「デッカー」ことモハ401。
この日は元モハ403のクハ451とコンビを組んでいました。戦後製のモハ1000形は在来車の中で最後まで残り、1500形と共に河東線(屋代線)で終焉を迎えます。
一方、新性能車の主役は0系と2000系。
0系は洗練されたデザイン、地方私鉄には珍しい20m・4扉といった斬新さがありましたが僅か30年余りの活躍でした。
国鉄ED15の流れを汲むED5001は1927年日立製。
既に主役は定山渓からやって来たED51形に代わっており、専ら入換えや小運転用でした。
▲いずれも須坂 1976-7
安直スナップだけに終わってしまった在来車ですが、この翌年、赤ガエルの大量襲来によって見る間に放逐されて行きます。
0系はよく見ると相鉄6000と同じ窓割です。乗ってみたら内装が少々安っぽい感じがしました。それと台車のせいか、あまり乗り心地はよくなかったです。
返信削除モハメイドペーパーさん
返信削除0系はローレル賞を貰ったりして画期的な電車だと思っていましたが、調べてみると技術的にはあまり先進的ではなかったようですね。側窓配置が相鉄6000と同じとはまったく気付きませんでした。
長電のイメージ一新に一役買ったわけですから、全部スクラップというのはちょっと悲しいです。信濃川田で放置されている車両といい、保存へに姿勢はハテナマークですね。