2018年3月26日

南薩残照 その1

▲鹿児島交通枕崎線 日置 1983-3

遠すぎて敬遠しているうちに機を逸し、3度目の九州行で初めて訪れたのは鹿児島交通でした。

1983年春のこと、鉄研の山陰合宿の折でしたが、現地解散後どの方面に寄るかという話になり、降って沸いたように九州行が決定。鳥取から特急「まつかぜ」、更に博多から夜行急行「かいもん」で鹿児島への大移動・・・学生ならではのルートでした。
▲キハ103車内 1983-3
 
・・・という訳で「かいもん」は未明の伊集院に到着。
南国なのにえらく寒かった記憶がありますが、隣のホームにいた始発列車・キハ103に乗り込みます。真っ暗な中、吊革が左右にガチンガチンと当たる猛烈なピッチング、少し不安になってきますが先ずは日置で下車。辺りを徘徊しながら夜明けを待つうちに、伊集院行2番列車のキハ303がやって来ました。
やっと陽が昇ったところで、枕崎行の折り返し列車も捕まえます。バックの小山は駅員さんから聞いたのでしょうか、「地元では日置富士と呼んでいる」とのことでした。
▲いずれも上日置-日置 1983-3

振り返ると日置駅構内が見渡せました。ここで上下列車が交換、片時の賑わいを見せます。改札付近には「吹上浜ユース」の旗を持った、見送りのおばちゃん一団が来ていました。
▲日置 1983-3

こちらは交換した伊集院行キハ103。同車は加世田駅跡にできた「南薩鉄道記念館」で現在も保存されています。
▲いずれも上日置-日置 1983-3

日置駅舎。
大きい民家といった風情で駅名票もありませんが、数少ない有人駅の一つです。アプローチ部分は土間のままでした。

時間があったので駅舎内もスナップ。廃線反対の貼紙がどこか虚しい感じがします。

▲いずれも日置 1983-3

ホームから伊集院方面を望む。キハ103が折り返してきました。
▲日置 1983-3

さて、このキハ103に乗り込んで次は加世田を目指すことにしました。
・・・次回に続きます。
▲阿多-加世田 1983-3

4 件のコメント:

  1. 地方鉄道の小駅でも東京までの乗車券置いていたのが、鉄道輸送華やかし頃の面影でしょうか。
    当方もとある私鉄さまにおいて券売システムの開発に携わりましたが、東京近郊区間の扱いや有効期限日数の算出で注力したものです。
    今はJR線連絡乗車券の取り扱い止めてしまったそうですが…。

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  2. 12号線さん

    地方の小駅で見る料金表は、遠くへ来たという感覚を更に深くしてくれますね。
    この頃はどこへ行っても都区内や大阪など大都市圏行の乗車券を発券していましたが、今や絶滅に近い状態でしょうか。最近まで残っていたJR連絡券を求めて岳南や近江、長電まどへわざわざ出向いたことを思い出しました。

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  3. うわー、懐かしいです。
    私の父・母(もう80歳過ぎ)の実家が加世田です。
    なので夏休みに親と帰省した際に、あの壮絶ボロボロな列車に乗せてもらったことがあります。
    最後に乗ったのが高校生の頃。丁度この写真と同じ時期になります。
    父は、この車両を利用して、鹿児島市内の大学まで通っていたそうです。
    母が言うには、加世田は日新公(島津 忠良)の地元なので、薩摩の中でも上流武士出身の家系が多く、鹿児島の中でも上品な街だったそうです。(確かに昭和40年代ぐらいまでは賑わってました)
    その上流武士の子孫の多くがこの鉄道会社に勤めていたそうです。
    時は武士の時代でもなく、そのような方たちの運営ですから、何の管理もせず晩年はあのようになっただろうと言っておりました。
    最後は、台風・水害でとどめをさされ廃業していました。
    川に掛かる橋も落ちているものが多く、廃業後何年もほったらかしであったのが私には目に焼き付いて忘れられません。
    貴重な写真ありがとうございました。

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  4. 匿名さん

    コメントありがとうございます。
    また地元ならではのエピソードも楽しく拝見しました。
    島津家ゆかりの子孫が南薩線の経営に関わり、ために管理が緩すぎたという話は非常に興味深いですね。
    当線を訪れた方々が一様に口にするのは加世田の廃車体や荒れ果てた駅舎、そして列車の壮絶な揺れですが、私にとってもこれらは忘れられない思い出になっています。

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