▲急行「天の川」 上野 1975-7
毎年夏になると、学生時代に精を出した、上野駅での駅弁立売りのアルバイトを思い出します。
コンビニもなく、長距離離列車が引っ切りなしに発着する当時の上野では、駅弁スタンドは必須アイテムでした。
風が通らず蒸し風呂のような13番線、特急「とき」「あさま」に混じって「信州」「妙高」など電車急行も次々に発車する5-8番線、「八甲田」「津軽」など長距離急行の席を確保するべく朝から並ぶ帰省客、浮浪者と思しきオッサン・・・・と、決して美しくはありませんが忘れがたい思い出になっています。
▲上野 1978-9
当然のように展開していた駅風景。
残念ながらバイト時代の記録はありませんが、過去記事でアップした「使い回し画像」も混ぜながら、夜行列車オンリーでこの時代の上野駅を振り返ってみます。
まずは学生時代に愛用していた長距離急行です。
19:10発の「八甲田」を皮切りに、「津軽」「十和田」「越前」「能登」「鳥海」「天の川」「おが」等々が続々と発車・・・1982年に東北・上越新幹線が開通するまで、上野は客レのオンパレードでした。
12・14系化されたものもありますが、まだ多くが旧型客車で運転されていたのも魅力の一つ。シートの硬さや非冷房であることも当時としては当たり前で、気にも留めませんでした。
▲いずれも上野 1枚目:1978-4 2-4枚目:1978-9 5枚目:1976-3
23:58発、客車急行の殿は「妙高5号」が務めます。
一方の特急も、最大7往復を誇った「ゆうづる」を始め、「はくつる」「あけぼの」「北陸」「北星」とこれまた多彩でした。急行と違い、新幹線開通後もほんの一時ながら更に充実し、1984年にはヘッドサインも復活します。
▲いずれも上野 1978-9
唯一20系で残っていた「あけぼの1・3号」は、1980年秋に24系化されました。
▲いずれも上野 上:1979-9 下:1975-7
速達性が何よりも優先され、赤字の根源とばかりに彼らが駆逐された結果、旅の醍醐味は随分と薄れてしまった気がします。独特の雰囲気が漂っていた夜の地上ホームも、今はその片鱗すら残っていません。
やはり、こうした感慨は過ぎ去った後にやって来るものなのでしょう。
ちてつさんが室木線(http://tsurikakedensha.blogspot.com/2018/07/blog-post_14.html)で撮られたオハフ33でも横軽対策済の●マークありますが、秋田あたりの43系は意外とそのマークがないのですね。
返信削除そんな秋田持ちの43系で構成された津軽51号の走行音ありますが、これをBGにしますとカラダが勝手にローリングしてしまいますw
https://www.youtube.com/watch?v=rH_wSSWQNDE&t=1892s
12号線さん
返信削除●マークが横軽越えOKのマークだったとは知りませんでした!
この時代の写真を改めて見ましたら、この「おが」以外はほとんど●付きの客車ばかりでした。1980年代に撮った、客レオンパレードだった頃の奥羽本線の写真も確認してみたくなりました。
ユーチューブの映像は揺れが丁度いい按配で、乗っている臨場感たっぷりです。
客車でス級の重量車ですと、峠道牽引で足かせになるのかもしれません。
返信削除乗り心地は劣っても35系や軽量客車が重用される理由なのかも。
DRFC-OBの万博臨でも●印付けたオハ35あります。こちらは地元鹿児島持ちでしょうか。
https://drfc-ob.com/wp/archives/99104
津軽51号にしても半日以上の時間、振動と喧騒、そしてあらゆるニオイが入り乱れた車内で過ごすわけですが今では体得できない「鉄道の旅」ですね。
12号線さん
返信削除補足ありがとうございます。
マニ37がよく夜行に併結されていましたが、確かにス級ばかりだと長編成はきついかもですね。
上野から青森間、私は「津軽」「十和田」「八甲田」いずれも全区間かそれに近い区間(弘前や七戸など)を愛用していましたが、若かったせいか当時はいつの間にか着いてしまった、という感覚でした。当時は何とも思わなかった、向かい合わせ席や汚れ、タバコの煙などは今は耐えきれないかも知れないですね(笑)。それだけ贅沢に慣れてしまったということでしょうか。