新潟交通モハ16は日車標準型ばかりのモハにあって異色の存在でした。
その出自は1927年製の伊那電デハ120形124。国鉄を経て当線にやってきて以来、ダブルルーフの半鋼製車体で異彩を放っていましたが、1969年に小田急デハ1400形の車体に載せ替えられます。
同じく小田急デハ1400形車体のクハ45とは仲間になりますが、やはりパンタを載せた姿は一味違います。単行で入ったり、クハ45形とコンビを組んだりと80年代まで大車輪の活躍でした。
1984年の晩秋のこと、この日はモハ16が単行運用に入りました。一面の田園の中を一直線に走る小中川付近で捕えることにします。
燕で編成を付け替えて、今度は本物の2両編成で折り返してくるのを待ちました。元武蔵野デハ320形のクハ39は1形式1両、蒲原鉄道モハ71は兄弟車です。
さて、モハ16との2回目の邂逅は1988年、3度目の訪問のこと。午後から単行運用に入ったモハ16を追いかけ、最後は灰方近辺に軸足を置いて何度か往復するのを見送りました。
灰方を発車、田圃の真ん中でぐいっと90度カーブすると、カエルが大合唱する中を真っ直ぐに燕へと向かいます。
両端を除いて中之口川沿いを律儀に走る新潟交通ですが、燕~灰方~小中川辺りまでは数少ない開けた区間。灰方は田圃の中に佇立する木造民家のようでした。
モハ16の出番が終わってしまうとあとは日車標準型モハばかりになりますが、夕方からは今度は仲間のクハ45形がやって来ます。
▲灰方 1988-5
80年代でもこんな素晴らしい新潟交通が撮れたのですか。
返信削除この頃、私は地方へ行こうと思えばいつでも行けたのに、鉄道撮影とは一切離れてしまいプラモデルに凝ったりポートレートを撮ったり、何も残らない脇道にそれてしまって大変な損出をしました。
katsuさん
返信削除新潟交通は電車こそ日車標準型に載せ替えてやや退屈になりましたが、昔から変わらない駅舎や施設がそれを補うに充分な役割を果たしたという感じがします。貨物輸送華やかなりし頃のホームや側線がそのまま残っていたのも大きかったと思います。
撮影中断の時期と言えば、私も高校三年間(77-79年)がほぼ真っ白、ために撮り逃したものは数え切れずで今考えても悔やみきれない思いでおります。「中断したときに限って良い被写体があったのに・・・」と地団駄を踏んでしまうのは誰にもあるのでしょうね(苦笑)。