2019年8月31日

大夕張の印象 その2

▲三菱石炭鉱業スハニ6車内 遠幌-南大夕張 1982-3
 
1960年代以前、石炭産業華やかなりし頃の北海道には網の目のように運炭鉄道が這い回り、古典蒸機や奇々怪々な客車が当たり前のように闊歩していましたが、国内炭の斜陽と共にその殆どが消えていきました。大夕張鉄道も1973年の閉山に先立って廃線になるハズが南大夕張に新鉱が発見されて延命し、辛うじて余喘を保っていました。
▲南大夕張 1982-3
 
さて、折り返しまでは時間があったので窓口で切符を所望したり客車を眺めたりしながら発車を待ちます。1日3本の割には途中の遠幌を含めて駅員さんが常駐し、窓口では連絡券や往復券も発行していました。
▲南大夕張 1982-3
 
▲全線乗っても片道60円(!)でした

主目的のスハニ6は1913年製・鉄道院出自の木造車という血統。
1967年に同系の美唄鉄道からやって来て以来、大型車体が幸いして客レに重宝し廃線まで活躍します。
スハニの相方・オハ1の前身は更に古く、1906年新橋工場製とこちらも鉄道院出身です。
 
Rが掛かった妻面が特徴のナハフ1は1937年製の自社発注車。観音扉が物々しいですが、他の2両に比べて近代的な印象です。
本日は出番のないラッセル、1940年製のキ1も国鉄OBでした。
蒸機時代の「社形96」を放逐したDL55は国鉄DD13と同系の新製車です。
▲いずれも南大夕張 1982-3
 
冬の短い一日が終わろうとする頃に発車時刻がやって来て最終列車・6レで清水沢にUターンです。とっぷりと暮れた頃に苫小牧の超安宿に到着、乗り潰し貧乏旅を続けました。
 
炭鉱栄華の残影とも言うべき当線も、南大夕張鉱の閉山と共に1987年に最期を迎えます。次回は炭住街と併せて夏の沿線を歩き回ろう・・・などとイメージしながら夕張を後にしましたが、叶うことはありませんでした。
▲オハ1 清水沢 1982-3

2019年8月24日

大夕張の印象 その1

▲三菱石炭鉱業スハニ6車内 南大夕張 1982-3
 
「遠路には夜行急行」・・・これしか移動手段が考えられなかった学生時代、北海道は途方もなく遠い所でした。
急行「津軽」で上野を出発、弘南鉄道だの津軽鉄道だのと散々寄り道し、連絡船から初めて函館に降り立ったのは1982年3月のことでした。
▲万字線 万字炭山 1982-3
 
ちょうど赤字の根源とばかりにローカル線が槍玉に上がっていた頃で、美幸線・白糠線・湧網線・・・と道内でも廃線候補が「特盛」状態。周遊券と道内夜行急行をフル活用し、一次廃止線を最優先に片っ端から乗り回していましたが、そうした中忘れずに訪問したのが三菱石炭鉱業(大夕張鉄道)でした。
▲三菱石炭鉱業オハ1 清水沢 1982-3
 
大夕張鉄道は一日たったの3往復、「乗って撮って」の姿勢からは外れますが、ここで3軸台車を履いた「スハニ6」に乗車しない訳には行きません。
近くにあった万字線や幌内線を乗り回した後に清水沢に到着、程なくやって来る5レを待つことにします。石炭産業は斜陽ながら広い構内にはセキが連なり、側線も多く活気がありました。

5レを石勝線ホームの端から狙います。貨物はなく、客車2両だけの寂しい編成でした。
▲いずれも清水沢 1982-3
 
早速乗り込むと2両のうち1両は締切りで、客扱いはスハニの方だけでした。ダルマストーブが焔々と燃え、車内は通学客らで結構混んでいます。
▲いずれも清水沢 1982-3
 
TR70台車の律動は「タタタン、タタタン・・・」の筈が、積雪に吸収されてしまうのでしょうか、よく聞き取れません。途中駅は遠幌の一駅だけで、7.6㎞の旅は呆気なく終了です。
▲遠幌 1982-3
 
南大夕張も広い構内を持ち、1973年まで途中駅だったせいか、終端の雰囲気はあまり感じられませんでした。折り返しの6レを待つ客はおらず、夕闇迫る構内と相俟って寂しさは募る一方でした。

・・・とここで枚数がいってしまいました。次回に続きます。
▲いずれも南大夕張 1982-3

2019年8月18日

ED38の終焉 その2

▲秩父鉄道デハ107 広瀬川原 1988-11

秩父鉄道デハ100形は電化開業時からの木造車を更新すべく、1950年に登場。
30両の大所帯を誇り一大勢力になった彼らも、旧小田急の800形(←デハ1800形)登場と共に急速にテリトリーが浸食され、1988年には全車が放逐されました。
▲三峰口 1980-5

さて、引き続き広瀬川原を回ります。
引退直後のデハ100らが墓標のように佇む姿を撮り回るのはうーむな趣味ですが、指を咥えて見ている訳にもいきません。

架線のない側線にはデハ107や少数派・クハ67らの姿。
クハ67はクハニ20形が多数派だった制御車の中で、4両だけ残ったクハ60形の1両でした。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

さよなら運転に充当され、最後の花道を飾ったデハ101編成。
一見手入れは良くくたびれた印象はありませんが、種車は古いですからやはり限界だったのでしょうか。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

このデハ600形を始め、現役世代は黄色に茶帯とちょっと引いてしまう出立です。
当時はC58の運転が始まった頃で、客車はまだ43系。
何年か振りに旧型客車に触れて嬉しくなり、しばし車内を徘徊しますがやはり目が行くのはスハフ32です。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

メインはED381でしたが、思った以上の副産物に満足しながら基地を後にしました。
このままお陀仏になると思い込んでいた同機はその後整備され、三峰口の「車両公園」に保存される運びとなり、取り敢えず一安心。

しかし、所詮は蒸機列車利用客への「人寄せパンダ」に過ぎなかったのか、他の展示車を含め全てが、今度は本当にスクラップに。
一事業者に全てを委ねることにも問題があると思いますが、鉄道車両の保存に対するこの国の認識の浅薄さには改めてガッカリするほかありませんでした。
▲樋口 1988-11

2019年8月11日

ED38の終焉 その1

▲秩父鉄道ED381 広瀬河原 1988-11

駿足揃いの阪和電鉄に導入された戦前の傑作、ED38(ロコ1000)。
その独創的な風貌と併せて、回生ブレーキや総括制御、速度性能といった機能面でも革新的な機関車でした。

時は1988年晩秋のこと、雑誌の「私鉄電機特集」を繰っていた手が止まりました。
そこには休車後雨曝しのまま留置されるED381の痛々しい姿。ついに走行シーンを拝むことなく最期を迎えてしまったと臍を噛むと同時に、せめてスクラップになる前に表敬訪問しておこうと即断、早速その週末に6×7版を抱えて広瀬川原へ向かいます。
▲熊谷 1974-10
 
先ずはこちらも退役間もないデハ100形。
あちこちに佇んでいる姿に惹かれますが逃げる訳でもなし、後でゆっくり見て回ることにします。

さて、お目当てのED381は建屋の隣、架線のない側線にいました。
雑誌で見たよりも随分と色褪せ、満身創痍の様相。僚機の3号機は一足先の1981年に引退、早くから部品取り用だった2号機は80年に消えてしまい、まさに孤高の存在になっていました。
▲いずれも広瀬川原 1988-11
 
ほぼ同時期に引退したWHのデキ1とデキ2が手を繋いでいました。
無理やり畳まれたようなデキ2のパンタが痛々しく、シャッターを押す手が逡巡します。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

第一線で活躍中だったデキ100形も現在は半数(4両)に数を減らしています。
こちらは西武からやってきた入換え機、D201。
現在は同じ西武OBのD15がその任に当たっています。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

呆気なく目的を果たしてしまいましたが、そそられるデンシャがまだ其処彼処に転がっていました。
・・・次回に続きます。
▲熊谷 1974-10