2019年11月28日

眠れる名作の発掘 その4

▲福島交通モハ1120 保原 1964-10

たまたま入手できた過去の記録は個人で秘蔵しても仕方がなく、「見て貰ってナンボ」の管理人。「一枚のスナップから」の一環として始めた本シリーズですが、少しでも多くアップしようと独立した記事で構成してみました。
 
・・・という訳で、リニューアル第一弾はこちらです。
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狭い砂利道・泥道を伸し歩くデンシャ。
1960年代まで全国各地で見られた風景ですが、沼尻鉄道や花巻電鉄などと共に、代表格の一角を占めていたのは福島交通軌道線でした。電車自体の魅力もさることながら、街の背景や施設との組み合わせも相俟って数多くの名作が生まれました。

撮影された時期は、巨大木橋が強烈な印象を放つ幸橋(瀬上荒町-河原町間)が流失し、代行バスが走っていました。

こちらは、福島方からやって来た電車が瀬上荒町電停を出て幸橋の手前で運行中止、乗客らがここからバスに乗り換えているシーンです。場所の特定に当たっては「地方私鉄 1960年代の回想」でお馴染みのkatsuさんから色々とアドバイスを頂きました。
▲瀬上荒町-河原町 1964-10

泥道の上に敷かれた交換設備も見所の一つ。
▲いずれも大内停留場 1964-10
 
こちらは名所だった長岡分岐点の風景。
目印だったパチンコ屋はまだ改築前で、普通の民家と変わりません。
店内は一体どうなっていたのか気になります。
▲いずれも長岡分岐点 1964-10

改めて見ると、電車の周り、道路そして電停にも多くの人が写り込んでいます。クルマが高嶺の花だったこの頃、小さなデンシャは欠かせない存在だったのでしょう。

この停留所でも沢山の乗客が待ち受けていました。
スマホに夢中で、皆一様に首を垂れている現在の乗降風景と違い、ひどく生き生きと見えてくるのはヒイキ目でしょうか。
▲いずれも長岡分岐点 1964-10

2019年11月19日

一畑電車の駅風景

▲一畑電鉄デハ23 大津町 1989-10
 
1990年代以前の一畑電車には開業時からの木造駅舎が多く残り、魅力的な駅風景が展開されていました。82年夏、初めて当線を訪ねた頃は「どこにでも転がっているシーン」として特段気にも留めませんでしたが、80年代半ばからでしょうか、ありふれたこの光景を好んで被写体に選ぶようになった管理人。
・・・となれば古豪デンシャと木造駅舎、この二つが揃った一畑電車を逃す筈がありません。

▲秋鹿町 1989-10
 
89年秋のこと、先が見えてきた食堂車体験を兼ねて特急「出雲」を奮発、一路松江へ向かいました。西武OBが幅を利かせていた頃ですが、在来車の活躍を期待して先ずは秋鹿町で下車、早速駅舎を観察です。
狭い待合室内にはもちろん出札窓口があり、木製のラッチにベンチ、チッキ、手書きの案内・・・と役者が揃っていました。
▲いずれも秋鹿町 1989-10

隣の津ノ森駅も秋鹿町とほぼ同じ意匠です。
▲いずれも津ノ森 1989-10
 
この日運用に入っていた在来種はデハ23+クハ103の1編成。
自社発注車オンリーだった頃に比べれば到底物足りませんが、当時既に車齢60年超、贅沢は言えません。
▲いずれも津ノ森-秋鹿町 1989-10
 
次に向かったのは布崎駅。
ここに限らず、無人駅は若干くたびれ感はあるものの綺麗に整備されていました。ゴミ一つ落ちていない構内に会社の姿勢が窺えます。
▲いずれも布崎 1989-10
 
田圃が途切れ、住宅地が現れた辺りにある美談。
かつては小さな停留場にも委託駅員さんがいて日々乗降風景が繰り返されてきた筈ですが、90年代から一気に無人化が進みました。
▲美談 1989-10
 
田圃の中にポツンと佇む大寺。
1979年と早い時期に無人化されていますが、窓口や事務室スペースが残っていました。
▲大寺 1989-10
 
大社線が分岐する川跡。
名アナウンスがウリの「おばちゃん駅長」で一躍有名になりました。
▲いずれも川跡 1989-10
 
現在なら駅舎巡りだけに丸一日掛けても足りませんが、この日はたった1本の在来車に飽きてしまったのか、午後から大社線へ転戦。大社線はワンマン単行が行ったり来たりながら、未だデハ3・6の独壇場でした。
▲いずれも出雲大社前 1989-10
 
さて、この日の締めは大津町です。
この駅も小ざっぱりした新駅舎に建て替わり、常時詰めていた駅員さんも平日早朝だけの嘱託氏だけになりましたが、この頃は昭和30年代から変わっていないであろうストラクチャが揃っていました。

構内踏切が泣かせますが対向ホームには何一つなく、果たして使われていたのでしょうか。
▲いずれも大津町 1989-10
 
一畑電鉄 川跡から美談あたり →→ こちら  


▲秋鹿町 1989-10

2019年11月9日

上信電鉄の試験塗装

▲上信電鉄デハ11 高崎 1975-6
 
再開第一弾は、小さい頃から馴染みだった上信線です。
古いフィルムをデータ化する余裕がなく、枚数は少ないですがご容赦のほどを。

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1000形入線前の上信電鉄には木造車を鋼体化した古強者ばかりが闊歩していました。
中でも最古参・デハ11(元東武デハ3)は、戦後いち早く改造されたせいか古めかしく、リベットがないことを除けば戦前の半鋼製車のようでした。早くも70年代初めから入換え専任に従事、しかし使い勝手は良かったようで、一線から退いた後も長らく活躍します。
▲デハ20 高崎 1977-1
 
1977年正月のことでしたが、雑誌の投稿コーナーにあった豆粒のような記事に眼が留まりました。曰く彼が「猫ヒゲのような」奇妙な塗分けに変身したとのこと、早速その週末に高崎へ。

正月で入換え任務がないのか、デハはパンタを下ろして構内の片隅に停まっていました。この形容し難い塗分け、前面の帯は確かに「猫ヒゲ」こと東武5700系を連想させます。
▲いずれも高崎 1977-1
 
今考えるともったいない話ですが、当時いくらでも走っていた鋼体化車らを追い駆けることもなく、この日はこれだけ撮って踵を返してしまいました。

上信の試験塗装には第二弾があり、この半年後だったか、クハ20が黄色と青のこれまた奇抜な塗分けで登場しています。

しかしこちらも見逃してしまいそうな雑誌の投稿コーナーに一度載っただけで、二番煎じに管理人も関心が湧かなかったのか、見に行くこともありませんでした。
正確な色や塗分けが分かったのはつい最近のこと、facebookでお世話になっている方の投稿からでした。塗分けと共に、三つ目ライトが眼を引きます。
▲第二弾・クハ20 高崎 1978-8 (撮影:志村聡司)

さてこのデハ11、1979年からは真っ黒に塗られてドラマロケに使われたりしました。
しかしその後間もなく80年に引退、果たして上信カラーに戻ることはあったのか、調べてみるも今もって分かりません。
▲いずれも高崎 1977-8

2019年11月8日

お知らせ~鈍行列車が発車します

▲同和鉱業片上鉄道1レ 益原 1990-8

いつも小ブログをご覧頂き、ありがとうございます。

10月12日、栃木県佐野市の実家が台風19号に被災、半壊しました。
小ブログでも多くのお気遣い、応援メッセージを頂戴しました。改めて御礼申し上げます。

この1か月は帰省しての復旧活動、そして時を同じくして入院してしまった老親のこともあり慌ただしく過ごしました。しかし、まだ先は見えない状況です。
▲キハ801 天瀬 1990-8

2016年初夏、半ば思いつきで始めた小ブログも沢山の方に支えられ、いつの間にか生活の中でかなりの位置を占めているということに、今回のお休みで改めて気づいた管理人。

見通しはまだつきませんが、主要駅で30分ずつ停車する旧型客車時代の鈍行のごとく、至極ゆっくりと、しかし確実に進もうと思います。

今後とも小ブログを宜しくお願いします。
▲益原-天瀬 1990-8