かつては妻沼線の中間駅・大幡を除く全駅が有人駅でしたが、この時は一気に18駅(異説あり)が無人化。現在ならば各駅を片っ端から回って切符集めに狂奔するところですが、情報が全くない上に小学生の身ではどうにもできませんでした。
▲合戦場駅舎(Wikiから転載)
日光線には家中、合戦場、楡木、明神・・・と魅力的な駅名が並び、一体どんな駅なのか-実際は何の変哲もない場所ですが-と子どもながらに妄想を膨らませていました。
73・78系が引退してからはすっかり縁遠くなった東武線、しかしこの時は野暮用の道すがら初めて合戦場駅近くに立ってみました。
周辺は起伏の全くない風景で「一面の田園を行く電車」といった画しかできませんが、数少ないDRCの記録になりました。
有人駅であっても入場時に鋏を省略したり、定期券発売窓口も集約化して駅から人減らしを図ったのも同時期かと思われます。
返信削除朝霞では使われない側線の撤去も行われ、保守車輌を留め置く部分を除き棒線化されてしまいました。
それまでは旅客電車を退避する貨物列車も見られたものです。
12号線さん
返信削除東上線や伊勢崎線都市部では、早くから自販機券に「入鋏省略」と印字されていたのを思い出しました。
子どもだてらに「流石は都会」と変なところに感心したのを憶えていますが、合理化のためだったのですね。
貨物が盛んだった伊勢崎線や佐野線にはどの駅にも側線があり、主要駅には貨物ホームと日通事務所がセットでありました。当時はその貨物がなくなるとは想像もできませんでした。
駅員無配置化について、鉄道ピクトリアル・アーカイブセレクション27「東武鉄道1970~80」P66に記載がありました。1972年に1駅(大師前)、1973年に11駅(日光線:合戦場・家中・楡木・樅山・北鹿沼・下小代・明神・上今市、鬼怒川線:大谷向・大桑・小佐越)、1974年に6駅(伊勢崎線:県・東武和泉・野州山辺、佐野線:田島・吉水・多田)が実施されたそうです。著者が東武鉄道の運転車両部運転課長なので、記述は正確だと思われます。次の実施が1977年(伊勢崎・小泉線)からとやや間が空くので、この時期に計18駅が一気に無人化されたという印象は概ねその通りのようです。
返信削除この記事では「これらの線区では通勤・通学客の集中する時でもその混雑度は100%を割っている状況」とあります。たしかに自身の記憶の中で、快速を除くと激しい混雑に遭ったのは宇都宮線の末端くらいで、高頻度運転を誇る(?)栃木~新栃木間の普通列車はどれもガラガラでした(なので乗っていて楽しい)。
1990年頃の合戦場~東武金崎あたりといえば、直線をかっ飛ばすDRCの合間を80km/hくらいの鈍足で行く3070系が印象的でした。霜取りパンタを上げてからっ風の中を行く冬の2両編成は好きでした。
返信削除最寄りは浦添前田駅さん
返信削除情報ありがとうございます。
伊勢崎線系は日光線と同時期(73年秋)かと思いましたが、74年だったのですね。佐野線各駅など自転車を飛ばせばいくらでも行けた筈でしたが、情報が全くなく知らないうちに窓口が塞がってしまったという印象で、未だにうなされています(笑)。
日光線系は73・78系引退後はすっかり縁遠くなってしまい、大して記録できずに終わったのは残念なところです。2丁パンタで走る3070系は見ておきたかったです。