2020年2月20日

山が笑う レールバスは行く その2

▲南部縦貫鉄道キハ102 営農大学校前-盛田牧場前 1992-5

さて、朝の2本が行ってしまうと、13時過ぎの6レまで延々待たなければなりません。
辺りには何もなく、過去の訪問ではこの途方もない待ち時間にめげてしまい、午後イチで引き返したりバスで十和田市へ抜けたりでした。
薫風清しいこの日の移動手段のメインは勿論脚力ですが、時折やって来る並行バスを捕まえて終日粘ることにします。

先ずは隣の後平駅まで辿り着きました。
トタン張りの簡素な駅舎、土盛りのホームは各駅ほぼ同じ意匠です。
▲いずれも後平 1992-5

後平からは路線バスで営農大学校前へ、ここで陽が沈むまで居座ることにしました。
▲営農大学校前 1992-5
 
目当ての桜は如何にと辺りを睨め回しますが、三分咲きというより蕾すらない個体がほとんど。怪訝そうにこちらを窺っていた老夫婦に聞いてみると「鳥に芽を食われてしまって、今年は全くダメ」とのこと、仕方なく無難なカットで妥協です。
隣の盛田牧場前まで行ったり来たりしながらアングルを変えてみますが、肝心のアップダウン区間の大半が影に隠れてしまいました。
▲いずれも営農大学校前-盛田牧場前 1992-5
 
・・・と突然雷鳴が聞こえ、みるみる空が暗くなってきました。
7レを辛うじて撮るや、土砂降りに・・・盛田牧場前の粗末な待合所でしばし雨宿りです。
程なくして通り雨は過ぎましたが、今度は踏切警報器が突然鳴り出しました。
モーターカー登場と思いきや、やって来たのは時刻表にない列車、元国鉄キハ10の104でした。車内に人影はなく、こんな夕方から下りの貸切運行かと思いましたが、今もって謎です。
▲これだけ撮るのが精一杯でした いずれも営農大学校前-盛田牧場前 1992-5
 
さて、いよいよラストです。
陽のかけらが沈む間際にやって来た上り最終、10レをシルエット気味に捉えて終了。
▲営農大学校前-盛田牧場前 1992-5

この後は最終バスで野辺地に戻り、弘前の安宿へ向かうことします。
辺りには何もなく、闇が迫ってくるばかりで少し不安になってきますが、真っ暗な農道をバス停目指して歩くうち、ぽつりぽつりと人家の灯が見えてきました。
▲営農大学校前-盛田牧場前 1992-5

2020年2月11日

山が笑う レールバスは行く その1

▲南部縦貫鉄道キハ102 営農大学校前-盛田牧場前 1992-5

1日5往復しかないレールバス。
朝から効率良く撮り回ろうとすると、格好の列車は野辺地着7時半着の「はくつる」でした。寝台券を奮発しなければなりませんが、583系の下段寝台は快適な寝床に早変わりするのでその価値は充分、あっという間に着いてしまうのが常でした。
▲いずれも営農大学校前-盛田牧場前 1992-5

1992年5月のこと、営農大学校前や津軽鉄道・芦野公園の桜が満開であろうことを当て込んで、セットで訪問。

この日は「はくつる」から野辺地に降り立つや、タクシーを飛ばして隣の西千曳駅の近くへ、早速雑誌に載っていたポイントを探します。

乗ってしまうと撮れないですから、本数が決して多くない路線バスやタクシー、そして何より脚力をフルに活かすことにしました。しかし降りた途端に下りの始発列車がやって来てしまい、先ずはこちらで妥協です。
▲いずれも西千曳-後平 1992-5

この日のメインは西地曳から近いこのポイント。
300㎜を構えて七戸方のカーブで待っていると、折り返しの野辺地行・4レがゆっくりと現れました。
▲しかし露出が稼げずピンボケ気味です いずれも西千曳-後平 1992-5
 
振り返ったカットがこちら。
国鉄時代の古い駅舎と長いホームがあった旧駅は1986年に移転し、この200m手前に1面1線の簡素な新駅ができていました。
▲野辺地-西千曳 1992-5

さてこからは歩くほかありませんが、緩い起伏を走る大陸的な風光に加えて麗らかな気候、線路際を歩き回りながらポイントを探すのは全く苦になりませんでした。
▲いずれも西千曳-後平 1992-5

・・・とここで枚数がいってしまいました。
次回に続きます。
▲いずれも営農大学校前-盛田牧場前 1992-5

2020年2月1日

眠れる名作の発掘 その6

▲山陽電気鉄道715 須磨 1960-3
 
戦後の復興輸送に一役買った国鉄63系。
大手各社は車両不足に悩む地方に自社のデンシャを供出、その見返りとして彼らが割当てられた経緯は有名ですが、東武・小田急・相鉄・南海・名鉄そして山陽電鉄へ嫁いでいます。

中でも山陽700形は唯一の標準軌63形として異色の存在でした。
中学時代に故・高橋弘さんの撮影になる、路面を闊歩する700形を見た時はえらく衝撃を受け、割当て経緯を調べるきっかけにもなりました。

こちらは1960年3月に撮影された、須磨駅での記録です。
こうして見るとガニ股化も違和感がなく、山陽カラーも実に似合っています。
▲須磨 1960-3
 
流線形ブームに生まれた、魅力的な200形も活躍中。
現在も206が東二見車庫に保存されています。
▲須磨 1960-3
 
▲いずれも電鉄別府(と思われる) 1960-3
 
さて、管理人が実見できた63系の生残りは東武と小田急でした。
特に東武7300形は流れを汲む7800形と共に一大勢力に膨張、更新されながら1984年まで生き長らえます。
▲いずれも東林間-中央林間 1980-5

▲館林検修区 1974-5

▲玉ノ井 1980-5
 
粗製乱造のイメージがある63系ですが、初の20m4扉設計はこの後も引き継がれ、戦後到来する大量輸送時代のお手本となっていきます。

特に小型車オンリーだった山陽では、車両規格も施設も最大限に拡張する難工事の末に63系を導入、図らずもこれが現在の基礎を作るきっかけになりました。
▲倉庫として残っていた車体(№ 719・701) いずれも東二見 1982-9