戦後の復興輸送に一役買った国鉄63系。
大手各社は車両不足に悩む地方に自社のデンシャを供出、その見返りとして彼らが割当てられた経緯は有名ですが、東武・小田急・相鉄・南海・名鉄そして山陽電鉄へ嫁いでいます。中でも山陽700形は唯一の標準軌63形として異色の存在でした。
中学時代に故・高橋弘さんの撮影になる、路面を闊歩する700形を見た時はえらく衝撃を受け、割当て経緯を調べるきっかけにもなりました。
こちらは1960年3月に撮影された、須磨駅での記録です。
こうして見るとガニ股化も違和感がなく、山陽カラーも実に似合っています。
現在も206が東二見車庫に保存されています。
▲いずれも電鉄別府(と思われる) 1960-3
特に東武7300形は流れを汲む7800形と共に一大勢力に膨張、更新されながら1984年まで生き長らえます。
特に小型車オンリーだった山陽では、車両規格も施設も最大限に拡張する難工事の末に63系を導入、図らずもこれが現在の基礎を作るきっかけになりました。
須磨の構内、小型車に不釣り合いなほど架線ビームが立派ですね。モハ63は地元の中央線で原型を見ています。小田急では学校の遠足で江ノ島に行くとき、なぜか1800形に乗り合わせることが多く、子供心にがっかりした思い出があります。
返信削除モハメイドペーパーさん
返信削除須磨駅のビーム、確かに現在でも引けを取らないくらいです。想像ですが、700導入に併せて施設を大規模に拡張した成果かも知れないですね。
原型63を体験されたとは羨ましい(?)限りですが、内装(室内灯や天井)は戦後の匂いが残っていたのでしょうか。私が体験できたのはこの2車種と63コピーの三井三池でしたが、三池のはデビュー時から殆ど変わっていないようでビックリしたのを憶えています。
記憶にあるのは昭和26年くらいからですから、肋骨天井ではなく、座席も全部ありました。引っかけ式の窓枠がポイント通過の振動で落ち、指を挟まれたことがあります(メチャ痛かった)。
返信削除山陽電鉄の700形ですが、70年代後半に旧西代車庫で見たような。。。
返信削除記憶が定かでありません。
モハメイドペーパーさん
返信削除私はてっきり裸電球・座席なし・肋骨天井を体験されたと思っていました(笑)。
現在のような酷暑ではなかったとは言え、3段窓はさぞかし暑かったのではないかと思います。
にぶろくさん
返信削除80年に東二見を見学した友人から「台車が付いた700がいる」と教えて貰い、遅れること2年後に訪問したときは既にダルマになっていました。最後のカットはその際ありゃーな心境で撮ったものです(苦笑)。
同時に訪問した西代にはいませんでしたが、過去にはここにもいたようですね。
貴重な画像を拝見させて頂き嬉しく存じます。
返信削除山陽229と228を撮影されば場所は、線形などから推定して電鉄別府駅だと思われます。現在も同じ感じです。
229の画像で道床部分が板張りになっているところがありますが、別府鉄道野口線を跨いでいたところのようです。
You-enてっどさん
返信削除情報ありがとうございます、別府でしたか!
ここ駅は別府鉄道を訪問した帰りに立ち寄った思い出の駅です(その後東二見に向かいました)。
今が旬の旧色3000は勿論、吊り掛け車が山のようにいた筈ですが中小偏重の当時はほとんど撮っていないのを未だに悔やんでいます。
木目壁に三段窓ですと、青梅線でモハ72500番台利用したのが唯一かもしれません。(もしかしたら850かも)
返信削除その編成サハの代わりにクハ79が入り、通り抜けできない貫通扉を針金で止めていたのを覚えています。
大概、鉄道公園行くにはクモハ73の更新車かクモハ40乗っておりましたゆえw
自己フォローで申し訳ありません。S50ごろ大阪緩行で垂水から新大阪までの乗車も三段窓クモハ73でした。
返信削除新幹線指定席が新大阪までの区間取れなかったようで、始発列車に乗るべく朝の通勤時間帯に揺られていった記憶あります。
足の速い快速に乗り換える客の入れ替わり激しい車内でしたが、それでも乗り通す乗客いたのを覚えています。
12号線さん
返信削除大阪緩行線を73系が飛ばして(?)いたとは今では信じられないですね。
ここの記録は鉄道ファン誌の全国旧型国電特集(77年)で知りました。当時は中学生で、見たことのない形式や塗装ばかりで、浅薄な知識ながら夢中で読んだのを憶えています。
私が見た三段窓は鶴見線や成田線、両毛線の区間運転、房総地区だったと思います(小中学生の頃で記憶が曖昧です)が、実際に乗れたのが鶴見線だけでした。しかしここも、南武線からの転入車によって間もなくなくなりました。