2020年4月4日

蒲原鉄道・1990年


▲蒲原鉄道ED1 村松 1990-9

純日本的な田舎の風景を凝縮したような「加茂線」が消えてからというもの、すっかり疎遠になってしまった蒲原鉄道。
残った五泉-村松間(4.2㎞)は田圃と住宅地の混在する中を一直線に走ったと思ったらオシマイ、加えて幹線道路が並行とあっては食指が動かないのも当然でした。
▲冬鳥越-七谷 1984-11

▲七谷 1984-11

1990年秋のことでしたが、新潟交通駅巡りの折、行掛けの駄賃的に五泉へ向かいます。
既に加茂線廃線から5年が経っていました。5年振りの五泉駅は如何にとホームへ行くや、待っていたのは何ともありゃーなペイントがされたモハ41で、いきなり出鼻を挫かれてしまいました。
▲五泉 1990-9

めげずにこれに乗って村松へ、訪問の度に覗いてきた車庫を改めて観察です。
開業時からのデンシャを見てきたであろうこの建屋は、1999年の全線廃止まで変わることはありませんでした。
▲いずれも村松 1990-9

こちらは1964年、同じ位置での記録。
名鉄からやって来た木造車モハ21や旧阿南のハ2など怪しげなデンシャ達が屯ろしていました。出自に謎の多いハ1も出動していたようです。
▲上:村松 中・下:加茂 いずれも1964-10

加茂線廃止時まで活躍したモハ12。
全線廃止まで14年間もここに置かれていました。
▲いずれも村松 1990-9

ED1はWHコピーの1930年・日車製で、専ら冬季のラッセル用でした。
▲いずれも村松 1990-9

朝ラッシュ時に出動するモハ71。
モハ71は旧武蔵野デハ1320形で、この頃は最古参でした。
モハ71とコンビを組んでいた旧国鉄キハ04のクハ10。前面が改造され面白味には欠けます。
隣のモハ61も武蔵野出身で、最後まで残ったメンバーでは最も好感の持てるスタイルです。
この頃はモハ11・12のほか51、81、91など個性派は既になく、十人並みの31と「さかな電車」の41が交互に走るだけになっていました。
結局、この時は「さかな電車」が行ったり来たり。
至って平凡な風景の上にこの電車とあってはこれ以上居座る気力もなく、早々に引き揚げることにしました。
▲いずれも村松 1990-9

趣のあった加茂線を知る者にとっては何とも消化不良。
これで最後かと思いつつ村松を後にしましたが、その後も新潟交通とセットでしぶとく訪問する機会を得ました。「さかな電車」も、しばらくして元に戻りました。

1984年・秋の蒲原鉄道 →→ その1  その2
1985年・加茂線廃止の頃 →→ こちら


▲高松 1985-1

4 件のコメント:

  1. 私も同じく新潟交通とセットで訪問したクチです。
    新潟と蒲原、岡山臨港と水島臨海、野上と有田と紀州…
    地方私鉄はセット訪問が定番でした(笑)
    冬鳥越はスキー場の斜面を登って俯瞰で撮影したような。。。

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  2. にぶろくさん

    新潟と蒲原のセット訪問は定番でしたね。丁度両線とも同時期に廃線が取り沙汰されたせいもあってか、1998-99年に私も何度か出向きました。
    野上・有田・紀州セットも貧乏旅行者にとっては「お決まり」でしたが、限られた時間では優先順位を決めるしかなく、有田はキハ58モドキで紀州がキハ600で・・・やはり野上に軍配があがりました。今考えると贅沢な選択ですね(笑)。

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  3. お金のない中高生の頃は
    今からは信じられないような撮影行程を組んでいました。
    近鉄内部線→三岐鉄道→北勢線→北恵那鉄道→木曽森林鉄道上松で1泊2日とか
    神岡鉱山→富山地鉄射水線→糸魚川活性白土→尾小屋鉄道で2泊3日とか
    それぞれ滞在時間が半日弱でもったいない限りですが
    それだけ撮影対象があったのは幸せな時代でした。

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  4. にぶろくさん

    木曽森林に糸魚川、神岡鉱山・・・と間に合わなかったというよりニブロクへの関心が遅きに失したせいで訪問できなかった路線がずらり並んでいますね。現在なら1路線で1週間かけても足りないくらいです。
    撮る対象が多かった時代は半日といより車庫を一覗きして、はい次、という按配でしたね。
    1路線に時間をかけるようになったのは社会人になってからで、既に大部分は廃止されてるか世代交代が終わっているかで、「あと10年、いや5年早ければ・・・」と未だに妄想しています(笑)。

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