2020年11月26日

電動貨車か機関車か

▲越後交通ED211 西長岡 1967-5

越後交通長岡線はナローの栃尾線に比べて地味な存在で、こちらは訪問せぬまま終わったという方も多いのではないでしょうか。

かく言う管理人も、中1夏休みの日帰り&貧乏旅行ではルートから外してしまう体たらくで、翌年の全廃まで乗ることも撮ることも叶いませんでした。国鉄長岡駅から行きにくい立地にあり、栃尾線とのセット訪問が難しかった事情があるかも知れません。

しかし、長岡線の歴代デンシャたちはバラエティに豊み、電車も電機も個性豊かな猛者が闊歩していました。


▲ぎりぎり間に合った栃尾線現役時代 いずれも長岡 1974-8


▲こちらは廃線間もない頃 下長岡 1975-7

・・・という訳で、本日は手元にある記録から、同線の変り種をお送りしてみます。
どこから見ても電動貨車のED211、前歴は1919年製・京王電気軌道の「20」。

その後改番、改造を経て1948年に越後交通(当時は長岡鉄道)へ嫁いできました。こちらでも当初は「デワ102」となるも間もなく電機を名乗り、69年の1500V昇圧時に引退という波乱の生涯を送りました。
▲西長岡 1967-5

個性派揃いの電車もさることながら、当線のもう一つの魅力は混合列車。
非力な電機が貨車+木造2軸客車を牽く模型のような編成が見られました。



▲いずれも西長岡 1967-5

「長岡線の電車」で思い浮かぶのはガソリンカー改造のキワモノ・モハ2000形ですが、管理人的に外せないのは富士身延OBのモハ5000形。

飯田線で余生を送っていたモハ1206を東急車輛で両運に改造、1960年にお輿入れして来ました。車内はクロスシートのままである上に、片運を両運に戻して更に原型に近くなった身延車は他にいないのではないでしょうか。

長岡へ旅立つ頃の記録が手元にありましたので、お目にかけましょう。

▲いずれも碑文谷(?) 1960-7

13 件のコメント:

  1. 私と同世代なのに栃尾線に間に合っているのが
    素晴らしい(羨ましい)です。
    写りこんでいる国鉄の新潟色70形も
    見たかったです。

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  2. 脇の自動車や人間と比較すると、栃尾線の車両は軽便鉄道の割に大きく立派に見えますね。近代化も及ばず廃止になってしまいましたが、それを考えると三重県の北勢線、内部・八王子線の健在はすごいです。

    電気機関車や電動貨車が牽引する混合列車は、他に松尾鉱業や秋田中央交通が思い浮かびますが、国内で実例は少なそうですね。長岡線の元京王ED211は、貨車にそのまま運転台を付けたような武骨な風貌が楽しいです。平坦路線なので低出力でも大活躍ですね。

    元富士身延のモハ5001は、弘南・大井川・高松琴平に行った仲間と比べると、ステップ付きの客扉や単行運転などローカルムードが強くなっていますが、こちらの方が元に近いスタイルですね(笑)。長岡線も長岡駅まで開通していればもっと便利だったんでしょうが、やはり信濃川に鉄橋を架けるのは難しかったようです。

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  3. 匿名さん

    1973年春の部分廃止の記事を「鉄道ファン」誌で見つけたのが訪問のきっかけでした。
    この記事に「残存区間もあと僅か」という一文がなかったらスルーしていたかも知れません。
    当時は上越線も70系や40系がまだまだ元気でしたが、こちらは殆ど記録していないのが悔やまれます。

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  4. 栃尾線は他の軽便に比べ電車も施設も立派な部類で、次々と自社改造もこなす先進性がありましたが、それだけ乗客も多く資金も潤沢にあったのでしょうね(田中一族のお膝元という事情もありましたが)。ぎりぎり間に合った中学時代の訪問で、軽便のか細い線路を初めて見た衝撃は未だに忘れられません。

    昇圧前の長岡線もまたワンダーランドで、ガニマタ電車・2000形がその筆頭だったでしょうか。単行電車だけで旅客を捌けたような気もしますが、なぜか電機牽引のミキストの記録は多いですね。

    身延100は最も好きな電車の一つで、体験できたのは遅くまで残っていた弘南大鰐線だけでしたが、出自も経歴も違う17M国電や武蔵野OBと組んで走る姿は魅力的でしたね。

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  5. 匿名で投稿してしまい失礼しました。
    写りこんでいるのは70系じゃなくて40系ですかね。
    旧国あまり詳しくないもので…苦笑
    私は新潟色や修学旅行電車の塗り分けが好きなんです。
    派手だけど趣味が悪いとは思いません。
    一度見たら忘れられないインパクトがありました。

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  6. にぶろくさん

    私も旧型国電はド素人の部類なので多くは語れませんが(笑)、70系編成にクハ68などが組み込まれていたようです。耐寒装備のゴツイ68は素人ながら惹かれる存在でしたが、いつどこでお目にかかれるか頓と分からずでした。

    新潟カラーや修学旅行色は私も好きで、派手ですが現在のデンシャと違い「品のある?派手さ」でしたね。DC急行などによく組み込まれていて、眼を引いていたのを思い出します。
    あと宜しければこの記事もどうぞ^_^

    https://express-akanagi.blogspot.com/2017/10/blog-post_19.html

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  7. 拝読しました。良記事でした!
    趣味が合いますね(笑)。

    早熟の鉄道少年だった私は
    小学4年生で修学旅行電車の虜になり
    カメラを持って近所の東海道線で待っていましたが、
    何せ臨時列車なので滅多に遭遇せず(涙)
    会えたのは「きぼう」「友情」「わこうど」くらいでした。
    小学校の廊下から東海道線が遠望できるのですが、
    「きぼう」の最終日を新聞で知り
    時刻表を緻密に計算した結果、
    ちょうど休み時間に通過すると予想(笑)。
    計算通りに最後の「きぼう」を見送る事が出来ました。

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  8. にぶろくさん

    閲覧ありがとうございます!
    関西では70年代半ばまで特大マークを付けて走っていたようで、見たかったです。
    関東では設定自体がなく、私が偶然眼にできたのはアップした東北線の団臨155系だけでした。
    かくいう自分の修学旅行列車も、中学高校とも新幹線でした(笑)。

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  9. 本題とはズレますが…失礼

    西宮居住時の小学校卒業旅行(1972)年、伊勢へ行きましたが、
    西宮駅から157系仕立でした。
    1学年10クラスの小学校だったからですかね。
    ボックスシートの間にあるテーブルを覚えています。

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  10. 北マトさん

    もしやそれは「ひので」では・・・(失礼)
    西宮から伊勢とはゴージャスな修学旅行ですね~因みに私は貸切バスでの江ノ島・鎌倉でした。
    経由は関西本線で加太越え・・・まさかの紀勢本線大回りでしょうか。

    車内は図鑑でしか見たことがありませんが、テーブルと座席と同方向の網棚は憶えています。家から持ってきたコンパクトカメラを自慢げに見せ合っている風景が思い浮かびます。

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  11. 実は私も西宮市の小学生でして…(笑)。
    伊勢への修学旅行はバスでした。
    亀山や伊勢市を通過する際にバスからSLを見て
    興奮したのを覚えてます。

    ただ西宮駅から電車(×157系→○155系?)で伊勢というのは
    記憶違いではないでしょうか?
    非電化区間があるので乗換が発生します。
    小学校は乗換を嫌うので、西宮の小学校では
    例えば近鉄(あおぞら)は利用していません。
    神戸の小学生だった年上の知人は
    国鉄利用で伊勢へ修学旅行へ行ったそうですが、
    旧客仕立てで草津までEF58、草津線~関西本線~参宮線は
    SL牽引(羨ましい!)だったそうです。
    D51かC57かC58かは覚えていないそうですが。

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  12. にぶろくさん

    おや、私の鉄研仲間と同郷でしたか!
    72年当時は現在と違って色々ユルい時代ですから、乗り換えありで効率性など考えないルートがあったかもですね。因みに私の田舎では日光への遠足は宇都宮乗換えでした(笑)。

    関西では1970年代初めまで蒸機があちこちにいて且つ形式も顔ぶれも豊かで、プラス私鉄電車も阪急始め名車が揃い・・・と羨ましいです。関東では足尾線のC12(70年)が最後の蒸機だったと思います。

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  13. そうなんですね。
    世代も近いですし、東海道線でご一緒していたかも(笑)。
    同じ場所で撮影していた先達には
    岩堀春夫さんがいらっしゃいます。

    もし西宮⇒草津が155系、草津⇒伊勢市がSL牽引旧客の修学旅行だったなら
    鉄道少年には夢のような旅行です(笑)。

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