2021年12月29日

良いお年をお迎え下さい

▲阪堺電気軌道モ164 住吉鳥居前 2021-12

いつも小ブログをご覧頂き、ありがとうございます。
コロナ禍もやっと小康状態と思いきや、なかなか安寧の日々とはいかない昨今、いかがお過ごしでしょうか。

2021年は、生活様式のみならず思考回路の変質が加速してきたような空気を感じます。
コロナ禍に乗じてかそうでないのか、降って湧いたような「急におかしくないですかSDGsブーム」やら「二言目には格差・差別はあきまへんキャンペーン」やら諸々の論調が大上段に構え、やたら息苦しい感覚がありますが、勘ぐり過ぎでしょうか。



▲帝塚山四丁目 2021-12

こうした中、管理人も8月に37年間の勤め人生活を終え、大きな節目を迎えることになりました。

最近3年間を振り返りますと、自らの健康問題や、実家(栃木県佐野市)の台風19号被災とそこからの復旧、時同じくして起きた老母の闘病と死去・・・と矢継ぎ早に大事が降りかかり、鉄活動は片隅に追いやるしかありませんでした。

なので、退職後は少し羽を伸ばし、伸ばし過ぎたところで鉄活動+求職活動再開・・・と企図していたところ、生来の怠け者ゆえ、未だに暗中模索というか単にボーとしているだけかもです。失業保険が切れる来年早々には何とかしないといけません(苦笑)。



▲安立町 2021-12

齢90を超えてなお矍鑠の阪堺モ161形。
稼動メンバーも4両となり、最近は出番も減ってしまいましたが、モ161がクラウドファンディングで修繕されるなど保存活動も順調、もうしばらく元気な姿を拝めそうですね。

この時は4両のうち3両の161形が交代で出動、今年最後の撮影行は僥倖に恵まれることになりました。ここら辺の顛末は改めて記事にしたいと思います。


▲住吉鳥居前-細井川 2021-12

長々と書いてしまいましたが、皆様もどうかお健やかに過ごされますように。
2022年も引き続き宜しくお願い致します。
それでは、良いお年をお迎え下さい!!

▲帝塚山四丁目-神ノ木 2021-12

2021年12月21日

1981年北陸行 その4

▲加悦鉄道キハ08 加悦 1981-8
 
「加悦SLの広場」は1970年代のSLブームに肖って企図したものの、オープンに漕ぎつけたのはブームも去った77年。
紆余曲折はあったものの、85年に鉄道線が廃止になった後も展示メンバーを増やしつつ、NPO法人「加悦鉄道保存会」の助力も得たりしながら、保存活動は連綿と続きました。

展示車には南海1201形や京都N電もいたりとちょっと脈絡がない感じもしますが、一事業者がこれだけの顔触れを揃え、日々露天でのメンテナンスを続けるのは容易ではなかったでしょう。


▲加悦 1981-8

しかし、2020年3月をもってついに閉園。
展示車の一部が安住の地を得た一方で、未だ引取り手が見つからないメンバーも多く、行く末が気懸かりです。もう少し公的支援があれば良いものを、いつもながら産業遺産の保存に対するこの国の姿勢にはガッカリするほかありません。
▲小鉄道にしては秀逸なデザイン。この道に長けた担当者がいたのかも

さて、残りの車両達を駆け足で回ります。
こちらは通称「森ブタ」のDB20で、唯一の森製作所製現存機。同社は蒸機からDLを造り出すのが得意技でしたが、これは完全な新車でした。
丹後山田の近く、日本冶金専用線でニッケル鉱輸送に活躍した旧南部のDC351と、その後継者のDD35。この頃はまだ若干の運用があった筈ですが、夏休みのせいか2両とも動く気配がありません。

▲いずれも加悦 1981-8

最後は蒸機です。
保存車の「看板」である2号機関車は1873年英スチブンソンの手になる名機で、もちろん元官鉄。引退後にドームの「なんちゃって真鍮製」を始め、各所が明治期のイメージに復元されています。

巨大エアタンクが物々しい4号。
河東鉄道(→長野電鉄)が開業に際し新造した機関車で、上のDC35がやって来るまではニッケル輸送の主力でした。この後デビュー当時の姿に復元されています。


国鉄木次線からやって来た、旧簸上鉄道の1261号。
こちらもDC35登場と共に引退しています。




元東急3100形のサハ3104。
1969年にお輿入れするも客車として活躍したのはほんの短期間で、ほどなくこの姿に化けます。更に廃線後には似ても似つかぬ姿に改装され、「カフェトレイン蒸気屋」とになりました。












▲いずれも加悦 1981-8

本日の客扱い当番、キハ1018がやって来ました。
南部縦貫鉄道キハ104と共に、数少ない国鉄キハ10の残党です。



▲いずれも加悦 1981-8

さてここから延々4時間、来た道を引き返して敦賀まで戻ることにします。
帰路の小浜線の車中、晩飯前に福井で京福電車を一覗きするか・・・などと考えていると、何やら同業者がやたら多い様子、イベントでもあるのでしょうか。

すると、そのうちの一人がこちらの匂いを感じたのか「どちらで撮るんですか」と話しかけてきました。聞いてみると近くでC56の臨時が走る由、折角だからと彼らの尻について行くことにしました。

ピカピカの蒸機が12系を牽く図には余り食指は動きませんが、同業者と横一列に並んで構えます。

▲いずれも藤井-十村 1981-8

薄暗くなった頃に敦賀着、長い夏の一日が終わりました。
この日は鉄研メンバーと福井で待ち合わせ、駅前の安ホテルに投宿。翌日は京福電鉄へ向かう予定です。

・・・いつ終わるか分からなくなってきました。しつこく続きます。
▲西舞鶴 1981-8

2021年12月12日

1981年北陸行 その3





▲加悦鉄道キハ51 加悦 1981-8

さて、北鉄の初訪問が終わったと思いきや、次のコマにはいきなり加悦鉄道が写っています。移動途中の車内やら食べたものやらを惜しげもなく撮れる昨今と違い、こうした旅の移ろいの部分をマメに記録できないところがフィルム時代の難点でした。

一体どこで夜を明かしたのか、忘却の彼方。
この小まめにメモを取らない生来のズボラさには、後悔すること数知れず・・・でしたが、もしやと資料の山を色々ひっくり返してみると、果たして下の方から変色した手書きの紙片が出てきました。

▲ハ21 1981-8

この日は小松線を撮り終えると、夕闇迫る小松から客レに乗車、終点の福井で時間潰しをしたようです。福井から20:34発の上野行「越前」に乗って0:03着の糸魚川で下車、ここで30分待つと今度は大阪行の「きたぐに」がやって来ます。これに乗ると5:22に敦賀着、めでたく一夜を過ごすことができました。

自由度が高いワイド周遊券ならではの所業、今やれと言われても到底できない「夜行列車折り返しワザ」でありました。

▲末期は独特の様式だった

さて、早朝の敦賀から今度は小浜線に乗車、一路丹後山田(現:与謝野)を目指しますが目的はこちら、加悦鉄道。終点の加悦には洋館のような駅舎と共に、歴史的なデンシャ達が保存されています。

「静態保存車には興味なし」の向きもあるでしょうし、管理人もまたその傾向ですが、ここだけは別格。野晒しなのに全身サビとツギハギだらけの痛々しい姿ではなく、現役時代さながらに整備され、何より木造客車がごく自然体で鎮座しているところが最大の魅力でした。

▲いずれも加悦 1981-8

メンバーは古株の機関車・客車18両に国鉄から借り入れた蒸機も含め、総勢20両。

先ずは現役世代のキハからです。
片ボギーのキハ101は1936年製の自社発注車で、遅くまでガソリンカーのままでした。国鉄からキハ08が入線してくると隠居生活になりますが、一応休車扱いになっています。


旧芸備鉄道のキハ51は1962年に国鉄→船木鉄道を経てやって来ました。
こちらもキハ08と新入りのキハ10に追われ、完全な予備車になっています。

国鉄オハ62がDCに化けたキハ083。
これが動くところを見るのが目的の一つでしたが、残念ながら本日はお休みのようです。
▲いずれも加悦 1981-8

続いては1970年頃まで活躍していた木造客車。
どれも静態保存ながら小さな車止が付いている程度で、「置物感」がなく現役のようです。

ハブ3は1889年、ドイツはバンデルチーベン製という代物で、本来なら博物館入りクラスでしょう。尤も改造に次ぐ改造で、オリジナルの片鱗はほとんど残っていませんでした。

讃岐鉄道→山陽鉄道→鉄道院→伊賀鉄道(初代)と変転、当線では客レ時代末期までDBに牽かれて普通に動いていました。

元国鉄マッチ箱のハ4995は、1893年新橋工場製。
1935年に一旦車体を載せ替えられ、ダルマさんになったこの車体は長い間車庫の片隅で荒れるがままに任せていました。しかしその後整備されて奇跡の復活、社員らの職人技を総動員して明治の姿に復元しています。
ハ21は上の4995の兄弟車で、こちらは新製車体に載せ替えられた姿。
一際小さいハブ2は伊賀鉄道(初代)OBで、木造車としては新しい1926年製です。


加悦オリジナルメンバーのハ10。
2・3等合造車として設計されており、開業に当たりどこかの注文流れを調達したのでは・・・と言われています。珍しいトラスロッドが付けられています。

▲いずれも加悦 1981-8

ホームの隅には倉庫代わりの2両が据え置かれていました。
何れも車番は判読できませんでしたが、モニタ屋根の方は形状からしてハブ6でしょうか。


仮台車に載せられたままのこちらは、恐らくハ20。
上のハ4995復活の際に、不要となった旧車体でしょう。
▲いずれも加悦 1981-8

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
しつこくまだ続きます。
▲加悦 1981-8

2021年12月4日

1981年北陸行 その2

▲北陸鉄道モハ3002 軽海-鵜川遊泉寺 1981-8

大学鉄研時代は年3度の「合宿」がありました。
といっても運動部のようにストイックな集団特訓を行う訳ではなく、合宿地にしていた国民宿舎で乱痴気騒ぎをしたかと思うと、翌日は青白い顔をしながら車庫や運転所などの施設見学を実施、というのが定番コースでした。

合宿地へは現地集合ですからそれまでは全く自由気まま、夜行列車や周遊券をフルに使って散々回り道をしながら、集合場所に辿り着く者がほとんどでした。この時は七尾線の羽咋でしたから、管理人としては北陸各私鉄を回わない訳にはいきません。

▲小松 1981-8

さて、朝方スルーした西金沢へ舞い戻って来ました。
側線では元名鉄のモハ3700形がくたびれた風体を晒しています。

揖斐線でもお馴染みのモ700形ですが、仲間の4両が1964年に嫁いで来ました。
しかし能美線廃止によって余剰のモハ3740・3770形がやって来ると休車に、そのまま復活することなく1987年に引退してしまいます。

何とも厳しいラッセルを纏ったED201。
南海や豊橋鉄道に仲間がいた「木南型」で、今や唯一の現存機となりました。現在も除雪用としてこの姿で待機していますが、イベント時にも駆り出されます。


丸みを帯びた車体に、ゴツイTR台車がアンバランスなED301。
この曰くつきの台車については既に数多くが発表されていますが、メーカーの東洋工機が国鉄から調達した黎明期の電気式気動車(キハニ36450形)のお古を履かせたもの、と言われています。

バラストを積んだホム1、これがまた年代物で1914年製。
九州は小倉鉄道セム1として誕生、その後国鉄・近江鉄道を経て1967年にやって来ました。



休車中のクハ1721。
このまま廃車と思いきや、僚車クハ1724が事故廃車になって制御車が不足に、こちらに白羽の矢が立ち復活を遂げることになります。
▲いずれも新西金沢 1981-8

続いては小松へ移動、小松線に初乗車です。
小さな車庫を覗いていると、鈴なりの客を乗せたモハ3003が現れました。


モハ3000形は1949年、金名線電化時に誕生した15m級の小型車。
しかし名鉄OBの3700形が投入されると全5両が揃って金石線に転出、更に同線廃止後はこれまたお揃いで当線にやって来ました。

モハ3004の前面窓が原型のままだったり、事故復旧で3005が別物のようになったりと小世帯ながらバラエティに富んでいます。


▲いずれも小松 1981-8

沿線風景は至って平凡、田圃や住宅地の混在する中を6km走ったかと思うと終点・鵜川遊泉寺に到着。無人化久しい駅舎は荒れ果て、廃屋のようでした。



▲いずれも鵜川遊泉寺 1981-8

唯一の撮影ポイントはこちら、鵜川遊泉寺から戻って5分の梯(かけはし)川橋梁。
モハ3003が行ったり来たりですが、ここで2本粘ってみました。




▲いずれも軽海-鵜川遊泉寺 1981-8

やはりすぐに飽きてしまい、空模様が怪しくなってきたのでこれで引き揚げることにします。これにて北鉄は終了、浅野川線以外の主要メンバーを取敢えず押さえて満足の1日ながら、金名線には乗れぬままでした。

浅野川線も未訪だし、またすぐに来るだろうと小松を後にしましたが、モタモタしているうちに1987年に金名線が廃止、更に90年には東急7000系に席巻されてしまい、足が遠のいてしまいました。

1984年の小松線再訪 →→ こちら


・・・しつこくまだ続きます。


▲北鉄から硬い切符が消えたのは早かった



▲最後の硬券乗車券は小松線に残存



▲小松 1981-8