2021年1月30日

鶴臨とAEG その2


▲銚子電鉄デハ501+デハ301 仲ノ町 1982-5

1970年代までの銚子電鉄は出自も経歴も違う小型車が闊歩し、一方でデハ3連やデキ+ハフ+デハの珍編成が定期的に動いていました。
しかしネットもない時代、頼みの鉄道誌も地方私鉄の情報は極めて貧弱で、数か月遅れの情報に臍を噛むことの繰り返しでした。

その後も「行かなければ」と逡巡しているうちに、1990年暮れに「赤黒塗装+ゴリラマーク」装束へ衝撃的な変身、これが一層遠ざける原因になってしまいます。

▲仲ノ町 1975-10

これは同社の経営危機と買収、そして買収元がバブルに踊らされた挙句に破産、その後の起死回生策・・・といった運命の翻弄とも言うべき経緯と切り離すことができません。赤黒装束はこうした中で誕生した落とし子でした。

さて、相変わらずの五月雨の中、めげずに鉄研一行は沿線を歩いて回ります。
先ずは観音で下車、本銚子方へ。この日はデハ301が終日動いていました。

もう1両の当番はデハ701。ハフやデハ201を追いやった仇ながら、考えると彼も1941年製(種車は28年製)、充分に古豪ではありますね。
▲いずれも観音-本銚子 1982-5

山と渓谷社刊「カラー日本の私鉄」の表紙で知った本銚子の切り通し。
現在は木々が伸び放題で、この定番アングルも難しくなっています。

▲いずれも本銚子-笠上黒生 1982-5

本銚子駅舎との組み合わせも鉄板です。
この駅舎も某芸能人によってビミョーな変貌を遂げましたが、地元に寄与するなら余り悪くも言えません。

▲いずれも本銚子 1982-5

そうこうしているうち、普段の行いが功を奏したのか雨が上がってきました。
このドンヨリ空ではモチベーション低空飛行ですが、デハ301が動いているうちは引き下がる訳にはいきません。

・・・しつこく次回に続きます。


▲いずれも犬吠-君ヶ浜 1982-5

2021年1月24日

鶴臨とAEG その1

▲銚子電鉄デハ301 観音-本銚子 1982-5

大学の鉄研在籍時代は春の新入生歓迎会を始め、夏合宿、卒業生追い出し合宿・・・と何かにつけタイトルを付しては集団行動を取るのが常でした。

当然、その道中はメンバーらと集合離散を繰り返しながら撮り回った訳ですが、それらは決して美しくはないものの忘れ難い思い出になっています。

今回はそんな中から1982年初夏、上級生になって些か余裕も出てきた頃の銚子電鉄の記録からお送りします。
当線は半端に遠い立地にあったせいか訪問回数は極端に少なく、1975年秋の初訪問以来。
既にハフや鋼体化車・デハ201の姿はなく、近江からお輿入りしたデハ700形が主役になっていました。

▲デハ301 本銚子-笠上黒生 1982-5

生憎と土砂降りの中、お決まりの仲ノ町車庫から撮影開始です。
先ずは何といってもこちら、AEGのデキ3。

1978年に混合列車がなくなってからは黒一色に戻りましたが、管理人的には電車と同色のツートンが断然ごヒイキです。貨物営業は形だけ残っているものの出番はなく、側線で昼寝を決め込む日々でした。

▲いずれも仲ノ町 1982-5

こちらは初回の訪問時、ハフも健在の頃。

▲いずれも仲ノ町 1975-10

今回の主目的は元鶴見臨港のデハ301。
国鉄を始め、上毛・山形・上田・静鉄など各線に散った100形の一派です。


1977年に2両のデハ700形が登場してからと言うもの、在来種の小型車はすっかり肩身が狭くなってしまいました。

デハ101は軽便用の雨宮台車を1067㎜に改造、これに木造新製車体を載せて1939年に誕生した当線初のボギー車です。戦後車体を載せ替えて現在の姿になりますが、11m級と当線最小とあって早くから予備車になりました。


1972年に上田交通からやって来たデハ501。
丸子線用に戦後導入された12m級の小型車で、戦前製のような精悍さはありませんが均整の取れた好ましいスタイルです。



元近江のデハ700形。
同車登場を機に、小型車オンリーだった銚電も変貌していきます。
ハフを放逐した張本人ですから、シャッターを押す手もリキが入りません。

▲いずれも仲ノ町 1982-5

雨にめげず、続いては沿線へ。
・・・とここまでで枚数を稼いでしまいました。次回へ続きます。
▲本銚子 1982-5

2021年1月16日

浜大津から東山三条へ

 ▲京阪電鉄614 浜大津-三井寺 1992-9

1992年夏の一日、浜大津で珍客を捉えた後は(→ こちら)、彼を追って錦織車庫へ行ってみることにしました。勿論走行ルートなど知る由もなく、あわよくば入庫後の姿を拝もうという皮算用、しかし車庫を覗いてみると丁度良い按配に昼寝中でした。どうやら任務は終わったようです。

改めて間近で観察。
122は1934年に有蓋車2002として竣工、その後戦後の復旧・改造を経て大津線にやってきた当線の再古参です。

▲いずれも錦織車庫 1992-9

京阪も含め、かつて関西各社は珍妙な事業用車の宝庫でした。
「私鉄電車のアルバム」で初めて彼らの存在を知り、あまりのキワモノ振りに涎を垂らしながらページを繰った記憶がありますが、大半は70年代後半までに淘汰されてしまいました。122は戦前派の最後の生き残りです。

▲もちろん阪急にも棲息 上:十三 下:正雀 いずれも1960頃

さてあっさりと目的を果たしてしまいましたが、今度は庫内に屯ろする260形らも見て回ります。

260形はタマゴ形木造車200形の車体を載せ替えて誕生、機器類は徐々に更新されるも古めかしいブリル・ボールドウィン台車はそのままでした。石山坂本線専用の350形もまた木造車800形からの転身でした。


▲いずれも錦織車庫 1992-9

続いては10年振りの東山三条へ向かいます。
▲近江神宮前 1992-9

京津線の主力は600形や700形に交代してしまい、260形が第一線で活躍していた81年当時とはすっかり様変わりしていました。

辺りは地下化に向け動き出しているせいかそこいら中工事現場だらけで、木造家屋が雑然と並んでいた街並も心なしか小綺麗になったように見えます。



▲いずれも京津三条-東山三条 1981-3

80形は冷房化されて健在。
屋根上がやたら膨らんで見え違和感は拭えませんが、それでもなお魅力的なデンシャです。

▲上:京津三条-東山三条 下:東山三条 いずれも1992-9

棒のように細い安全地帯に変わらぬ乗降風景。
街は小綺麗になっても、往年のインタアーバンの匂いはまだ残っていました。


▲いずれも東山三条 1992-9

2021年1月9日

上野口の20系客車

▲カニ21「あけぼの2号」 上野 1978-9

上野から20系特急が消えたのは1980年秋。
「あさかぜ」を最後に東京口から引退したのに遅れること2年、最後の任務は青森からの「あけぼの3・4号」でした。20系の象徴的存在だったナハネフ22はこれに先立つ80年春に消滅、最後の殿の務めは切妻のナハネフ23が果たしていました。

分割編成用に登場した同形式は、「出雲」「富士」「はやぶさ」「あかつき」「彗星」などに組み込まれ、西日本でしかお目にかかれない憧れの存在でした。
20系末期には図らずも其処彼処で見られるようになった訳ですが、やはりRの利いた22の方は車齢も短かったのでしょうか。
▲尾久-上野 1980-9

▲上野 1978-9

田舎高校を卒業し上京して間もない頃、先ずは早朝の夜行列車群を抑えようと鶯谷へ。
ド定番アングルながら、京浜東北線ホームの先端で陣取っていると、EF58・65・80牽引列車が次々に上ってきました。

夜が明けた頃に顔を見せたのは仙台からの短距離ランナー・急行「新星」、続いては秋田から羽越線、上越線を延々と上って来た急行「天の川」です。


▲いずれも尾久-上野 1980-5

一時期は7往復を誇った常磐線の看板列車・「ゆうづる」もやって来ます。


▲上:尾久-上野 下:上野 いずれも1980-5

この日の本命、「あけぼの2号」。


旧型客車オンリーだった急行列車群も徐々に代替が進んでいた頃で、名列車「津軽」「八甲田」のハザは12系に替わっていました。


▲上・中:尾久-上野 下:上野 いずれも1980-5

この頃1往復だけ残っていた高崎線の客車列車、2321レ。
▲尾久-上野 1980-5

通勤車の主役はもちろん103系です。
▲鶯谷 1980-5

最後の「あけぼの」同様、「新星」や「天の川」の最後尾もナハネフ23が務めることが多くなっていました。
ナハネフ22に比べると人気がない23ですが、鉄道少年時代の憧れだったせいか管理人的には今でも最も好きな車両の一つで、しつこいくらいに追い駆けています。

▲いずれも上野 1980-5

20系の運用自体はその後も季節列車でしぶとく残り、最後は帯が消えビミョーな塗装になったりしながら1998年まで生き長らえました。

こちらは秋田への帰省列車、急行「おが」。
どうやって許可を貰ったのか忘れましたが、この時は尾久客貨車区にも潜り込んでいます。
白ラインが1本ないだけで随分と印象が代わることに気付きました。


▲いずれも尾久 1992-8