2021年2月28日

大阪駅の夜


▲EF651112「あさかぜ」 大阪 1980-9

アルバイトの稼ぎと九州ワイド周遊券片手に、初めて大阪駅に降り立ったのは1980年夏休みのことでした。

大垣夜行で出発、各停を乗り継ぎながら別府鉄道や下津井電鉄、可部線やセノハチ、宇部・小野田線と「お初路線」で散々道草を食った挙句に、これまた初めての九州入りを果たした訳ですが、この「超」道草の皮切りとなったのが大阪駅でした。

▲別府鉄道キハ2とハフ5 別府港 1980-9



▲下津井電鉄モハ103+クハ24 東下津井-下津井 1980-9

この撮影旅の手始めは「山崎の大カーブ」。
特急や貨物が次々にやって来るこの区間で散々粘り、夕暮れと共に大阪駅に舞い戻って来ました。



▲いずれも山崎-高槻 1980-9

当時は新大阪・大阪始発の寝台列車や北陸特急などが見飽きるほどやって来ますが、この日のメインはこちら、「西のEF58」。

旧型電機が少なくなってきたこの時期、未だ本線を走っていたのは彼らとEF15、セノハチの59だけになっていました。


▲いずれも大阪 1980-9

こちらは大窓のEF5869。PS22が少しだけ残念です。
この69号機を始め、関西地区では米原・宮原・広島区所属の魅力的な機を見ることができました。

富山地鉄への出張列車「立山」もやって来ます。
山陰特急はまだキハ82・181の独断場。
夏休み中ではありませんが、コンパクトカメラを携えた鉄道少年らも見掛けます。



大社までの長距離ランナー・急行「だいせん」は1975.3改正で20系化されました。
こちらは宇高連絡急行「鷲羽」。
最盛期には11往復が設定されていましたが、新幹線岡山開業後に残ったのは夜行の1本のみ。未明の2:53に宇野着、朝イチの宇高連絡船へつながり4:10に高松着という今では考えられないダイヤでした。

▲いずれも大阪 1980-9

近郊の終電が行ってしまうと、コンコースに屯ろしていた浮浪者らが次々と退散させられていきます。身構えましたが、切符を見せて行先を告げれば何時になっても待合室から追い出されることはなく、ここで「駅寝」を決め込んで夜を過ごすことにしました。

さて改札前のプラベンチでは全く眠れず、明け方を待って続行します。
こちらは10系寝台が残っていた北陸急行「きたぐに」。この後1985年に583系に交代、最後はうーむな塗装になったり臨時に格下げされたりしながらも2013年まで残りました。

博多行「まつかぜ」は大阪を8:00に発車し博多着20:50、13時間をかけ山陰本線ほぼ全線を踏破。東の「白鳥」と双璧を成す最長昼行列車でした。
こちらは「西のゴハチ」と共に最も見たかったカニ251。
20系編成時代を彷彿とさせるデンシャながら、ツギハギだらけの何とも痛々しい風体です。

カニ22を叩き直して誕生した2両のカニ25は「あかつき」「彗星」「明星」に組み込まれ、1975.3改正後の車両不足解消に一役買いました。しかしやはり老体が祟って252が僅か3年で引退、たった1両残ったこの251も84年に消えていきます。


▲いずれも大阪 1980-9

かつてEF58+20系の「あかつき」「彗星」「つるぎ」「日本海」の4羽カラスは関東の鉄道少年憧れの的でした。特に大窓機が牽く「あかつき」と「彗星」、これ以上の編成美は二度と現れないのではないでしょうか。

彼らが消えた75.3改正の前夜、その姿を記録しようと各駅はゴッタ返し、鉄道雑誌はこぞって特集を組み、自分の眼瞼に焼き付けることのできない管理人は食い入るようにその文字面を追うだけでした。

しかし改正から一夜明け、24系化され機関車からマークが外されてしまうと、潮が引くように情熱が薄れていきました。
▲大阪 1980-9

2021年2月21日

ささやかな市営鉄道の記録


 ▲玉野市営電気鉄道モハ101 三井造船所前(?) 1964-9

路面電車や地下鉄以外の公営鉄道というのは余り聞いたことがありません。

戦後まで残った路線は荒尾市営と玉野市営だけで、いずれも郊外形のデンシャが走っていました。軍需専用線だったのを旅客線に再生して開業、しかし戦中の突貫工事が祟って施設は老朽の一途、加えて赤字続きでついに廃止・・・と辿った経過もそっくりです。

玉野市営は前身は戦後のドタバタの中、1953年に開業した備南電気鉄道。
しかし先の経緯から3年と経たずして玉野市に移管、その後路線延長や新駅開業、そして内燃化を図るも1972年に廃線となります。
三井造船所前(?) 1964-9

ささやかな車庫があった三井造船所前。
モハ100形は開業に当たって3両が用意されましたが、これは新製というより注文流れ品を手当てしたと言われています。

クハ201は1928年製・元野上電鉄の単車、デハ6。
野上時代に車体延長やクハ化の改造を受け、異様な風体になっています。

▲いずれも三井造船所前 1964-9

路線もミニなら切符も2.5cm×5.0cmの極小サイズ。
他に例を見ない風変わりな様式は、備南電鉄時代からの仕様を引き継いでいました。
▲やや厚手の軟式券でした

終始苦労の連続だった当線は1964年冬、動力を内燃化。
三岐や熊延からやって来たキハに再生を託すも、赤字体質には抗えず72年春に短い一生を終えました。一方、琴電へ嫁いだ3両の100形は、日立製の高性能車という出自の良さが功を奏してか2006年まで長く活躍、明暗を分けることになりました。

▲いずれも平木 1989-2

2021年2月14日

分岐点・忠節

▲名古屋鉄道モ512+513 早田-忠節 1992-9

数えきれないほど通い詰めた名鉄揖斐・谷汲線。
最晩年は岐阜駅前レンタカーから目的地まで一直線・・・が定番コースになってしまいましたが、電車利用の際は嫌でも通過するのがジャンクション・忠節駅でした。駅ビルがあり中堅ターミナルの風格ながら、寂れた雰囲気も漂っていました。
▲ポツンと座る窓口氏から買いました

忠節は美濃電の前身、岐北軽便鉄道時代の1914年開業。
長良川によって分断されていた地域をつなぐ役目を果たし、幾多の変転を経て現在の位置にできたのは戦後、1954年になってからでした。

その後1972年にはスーパーも入り一時期は賑わっていたのでしょう、しかしそのスーパーも撤退、2000年には駅ビル自体も閉店してしまいます。管理人が足繁く通い出す90年代以降は、クリーニング店だったかが所在なく残るだけになっていました。

▲モ755 忠節 1987-3

長良川を渡る長大な忠節橋。
ここを過ぎると坂を一気に駆け下りて行きます。


▲いずれも早田-忠節 1987-3

こちらは急行「銀河」を薄明の岐阜駅で下車、夜明けを待って訪れた時のスナップ。市内線が漸く動き出し、まだ駅は眠ったように静かでした。



▲いずれも忠節 1992-9

この日は黒野に向かう3連を狙って尻毛辺りを徘徊したり、その後本揖斐方面へ転戦したりと、内容の濃い一日を過ごしました。


▲いずれも旦ノ島-尻毛 1992-9



▲黒野-清水 1992-9

鉄軌道両線が分界する辺りで夕暮れを迎えました。

▲いずれも早田-忠節 1992-9

廃墟の前兆のような雰囲気があった駅ビルはその後閉鎖され、2007年春に駅舎もろとも解体されました。リセットされた現地には別の商業施設ができたようですが、デンシャが来なくなった空気は今どうなっているでしょうか。


▲いずれも忠節 1992-9

2021年2月7日

鶴臨とAEG その3


▲銚子電鉄デハ301 観音-本銚子 1982-5

さて相変わらずの空模様の下、引き続き沿線を回ります。
次は犬吠に近い、これも定番地点へ。晴れていれば海+灯台の絵ハガキ構図が収まるハズですが、この空模様ではそれも叶わず、うーむ且つ眠たそうな画しか撮れません。



▲いずれも犬吠-君ヶ浜 1982-5

薄暗くなってきた頃、最後に仲ノ町車庫をもう一度覗いているとデハ501+301の2連が突然現れました。夕方のラッシュに併せて501を併結したようです。

沿線で追い掛けたいところですが、タイムアップが迫る中、仕方なく駅付近で折り返しを待ちます。デハ501の動いている姿を見たのはこれが最初で最後になりました。


▲いずれも仲ノ町-観音 1982-5

最後はこれにお名残り乗車。銚子で見送り、打ち止めとしました。
▲銚子 1982-5

その後は何度も予定だけは立てるも、この中途半端な遠さが仇となります。
グズグズしているうちに、「赤黒塗装+ゴリラマーク」の衝撃的なお出ましになってしまいました。

鉄道ジャーナル誌でこれを初めて見た時のショックといったら、ちょうど野上電鉄のチョコボール電車(モハ24)登場の時と同じくらいでしょうか。「伊予鉄からデハ800形がやって来てつまらくなった」などと贅沢を言っている場合ではありませんでした。
▲カラーで撮る気が起きません 日方 1990-11

こちらはそのショックからも立ち直り、切符目当ての三度目の訪問時。
既にデハ301はもちろん伊予鉄車も引退し、京王や営団OBらが占めていました。懐かしい本銚子の切り通しに立ってみましたが、やはり繁茂した木々のせいで見通しが利きません。
▲本銚子-笠上黒生 2013-6

▲いずれも外川 2013-6

「まずい棒」「修理代を稼がなくちゃ、いけないんです。」「電車を止めるな!」・・・と最近は印象的なフレーズが次々に登場。

瀕死の状況と矢継ぎ早に繰り出される企画、起死回生を図るもまた頓挫・・・の律動はそれ自体が映画になりそうな展開ですが、考えてみるとこの数十年ずっと経営危機にありながら踏ん張っている。ある意味小説よりも奇な路線ということができるでしょう。

ハフがいた時代 → こちら

▲犬吠-君ヶ浜 1982-5