2021年3月13日

茫漠の風景


▲住友セメント唐沢鉱山専用線NO14+13 唐沢鉱山付近(?) 撮影年月不明

簡単に手が届く場所にありながら撮り逃すかマトモな記録を残せず、未だに臍を噛む路線・・・残念ながら管理人の場合はこれが非常に多いです。

70年代の上毛・上信線、関東鉄道各線などはその気になればいつでも行けたハズなのに碌な記録がなく、世代交代前の強者がいた時代は拙いスナップばかり。
丁度この頃、国鉄優待列車に熱を上げていたか、鉄道への感心自体が薄れた無気力時代だったせいかも知れません。
▲車庫や駅を一覗きしてオシマイの上信線 いずれも高崎 上:1974-12 下:1976-2

▲旧関東鉄道への初訪問は80年代になってからでした 真鍋 1987-3

そんな中での筆頭格はこちら、葛生にあった住友セメントのナロー。
雑誌でも何度か取り上げられ同種の路線としては夙に有名でしたが、いくらナローと言えども非電化の貨物専用線は縄張外で、東武のEDを撮ることはあってもこちらには振り向きもしませんでした。
▲唐沢鉱山付近(?) 撮影年月不明

・・・という訳で長い前置きでしたが、本日は手元にある何枚かの記録を補正してアップしてみます。

唐沢専用線は葛生駅から少し奥、貨物線が分岐する上白石から出ていた3.3㎞の路線。
石灰石やドロマイトの巨大産地・葛生では古くから貨物線網が整備され、こちらも1938年から石灰や砕石を運搬していました。

ナローながら1日50往復と盛業、しかし盛業が過ぎて列車での運搬が限界になり1980年に「カプセルライナー」方式に転換します。

牽引機は従来からの日立製10トン機に、1974年製の東洋15トン機という陣容。同時期に大型鉱車も登場し、日立機は背中合わせの重連が基本になりました。





▲いずれも唐沢鉱山付近(?) 撮影年月不明

山々は悉く掘り返されて一面の茶色い世界。
鉱山はどこも似たような感じなのでしょうが、緑がない痛々しい風景です。

こちらは鉱山ホッパーの近くでしょうか。
紫色の部分はフィルム原版の変色によるもので、範囲が広すぎて画像ソフトによる救済は無理でした。

▲いずれも唐沢鉱山(?) 撮影年月不明

入換用に残っていた古いカトー。
隣にいる人車は最後まで残り、廃止日の記念列車にも連結されました。

上白石駅に隣接していた基点・住友セメント栃木工場の構内。
1067mmと見紛うほどの立派な軌条です。
▲いずれも上白石 撮影年月不明

石灰石輸送が隆盛を極めていた頃の葛生はまさに「魔境」で、東武大叶線、会沢線、日鉄鉱業専用線、更には石灰業者のトロッコ・・・と多くの路線が山奥へ伸びていました。車両は紹介され尽くした感ありですが、発表されていない沿線風景は未だ数知れずでしょう。

1970年代の鉄道誌は国鉄蒸機や優等列車ばかりを紹介し、地方私鉄はオマケ程度、専用線は異世界。こんな風潮にまんまと流されてきた管理人、この撮影者のように違う視点を持つべきだったと今更ながらに。
▲NO14+13 唐沢鉱山(?) 撮影年月不明

9 件のコメント:

  1. 懐かしい写真ありがとうございます。
    写真を拝見すると構内もあるようですね。この頃は作業する方に声掛ければ良かった時代でしたから。

    今の葛生は何も無いですがのんびりできますよ。もう佐野の一部、つまり管理人の故郷です。
    また再訪して、記事掲載くださいね。

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  2. 同世代の私も国鉄優等列車→SL→中小私鉄→特殊軌道と
    興味の対象が変遷しましたが、
    国鉄旧国や旧型電機、大手私鉄の旧性能電車など
    こぼれ落ちたものが少なくありません。
    しかも今から見ると魅力的なものばかりで…(笑)。
    オールマイティに網羅するのは
    時間とお金がふんだんにあれば別ですが
    当時10代の少年には夢のまた夢でしたね。

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  3. 連投ですみません。
    入換用に残ったKATOの3tガソリン機関車は
    ご近所の駒形石灰工業にいた2ftの3.5t機とともに
    ナローファン垂涎の的でしたが、
    「全国鉱山鉄道」(JTB)によると
    1974年頃に姿を消しているようです。
    恐らくですが、廃車直前の貴重なカットなのでは。

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  4. じろうさん

    訪問ありがとうございます。
    私の記憶にある葛生は広いヤードに次々にやって来る貨物列車と活気に満ちた風景ですが、今は静かな田舎駅になっているのでしょうね。
    当時は作業現場でも「写真撮らせて下さい」「いいよ、気をつけな」という感じで気軽に立ち入れました。館林検修区などは何度撮らせてもらったか分かりません。

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  5. にぶろくさん

    純粋な鉄道少年(笑)の頃は雑誌から入ってくる情報が影響大と言うより全てでしたから、国鉄偏重も仕方ないかもですね。それにしても自分の場合は他に目覚めるのが遅過ぎた感ありで、庭にいた獲物は捕らずにわざわざ遠方へ狩りに行く体たらくでした。
    「駒形石灰」のヘロヘロ線路はあとになって知りました。葛生駅の手前、その現場を自転車で通ったハズなのに~・・・とまた後悔です(笑)。他にも「村堅石灰」もありましたね。

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  6. 1970~975年頃はまだサラリーマン新人で写真撮る余裕はたっぷりあったのに写真クラブに入会し、くだらないポートレートばかりを撮っていました。今はその頃のネガを全部捨てましたが、この時代の葛生界隈とこの時代の上野駅を撮っておけば今どれだけ楽しめるかを想うと悔しくて堪りません。

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  7. katsuさん

    私も高校時代に写真部に入り、暗室ワークやポートレート技術の習得に勤しんでいました。
    大学鉄研時代も「たまには一般人のように観光でも」と似合わぬ物見遊山をしたことがありますが、暗室技術以外はすべて忘却の彼方です。やはり慣れぬことはするものではない、と今になって思います(笑)。

    上野駅と言えば、私も山ほど撮っている筈なのに、どうしてあと3、4歩下がってシャッターを押さなかったのかと悔やまれてなりません。帰省列車を待つホーム、10系寝台の乗降、売店・立ち食いそばの風景・・・今見ていて惹きつけられる同駅テーマの写真は、鉄道ファンでない方々の作ばかりです。

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  8. モハメイドペーパー2021年3月13日 22:47

     これだけでも貴重な記録です。葛生は東武の蒸機お別れの時に行っただけ。こういっては失礼ですが、私にとっては今でも館林から先は魔境の範疇です。

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  9. あはは・・・魔境に高校卒業まで住んでおりました(笑)。
    館林は地方都市→渡瀬・田島は魔境へのプロローグ→佐野市・佐野は魔境一丁目→堀米から田沼は中魔境→多田・葛生は奥の院・大魔境といったところでしょうか。
    東武蒸機さよなら(66年)の頃はまだ電車も54形オンリーで、小学校の通学路で毎日見ていたハズなのですがあまり記憶にありません。1時間に1本ではタイミングが合わなかったのかもです。

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