路面電車や地下鉄以外の公営鉄道というのは余り聞いたことがありません。
戦後まで残った路線は荒尾市営と玉野市営だけで、いずれも郊外形のデンシャが走っていました。軍需専用線だったのを旅客線に再生して開業、しかし戦中の突貫工事が祟って施設は老朽の一途、加えて赤字続きでついに廃止・・・と辿った経過もそっくりです。
玉野市営は前身は戦後のドタバタの中、1953年に開業した備南電気鉄道。
しかし先の経緯から3年と経たずして玉野市に移管、その後路線延長や新駅開業、そして内燃化を図るも1972年に廃線となります。
▲三井造船所前(?) 1964-9
ささやかな車庫があった三井造船所前。
モハ100形は開業に当たって3両が用意されましたが、これは新製というより注文流れ品を手当てしたと言われています。
モハ100形は開業に当たって3両が用意されましたが、これは新製というより注文流れ品を手当てしたと言われています。
クハ201は1928年製・元野上電鉄の単車、デハ6。
野上時代に車体延長やクハ化の改造を受け、異様な風体になっています。
野上時代に車体延長やクハ化の改造を受け、異様な風体になっています。
▲いずれも三井造船所前 1964-9
路線もミニなら切符も2.5cm×5.0cmの極小サイズ。
他に例を見ない風変わりな様式は、備南電鉄時代からの仕様を引き継いでいました。
▲やや厚手の軟式券でした
終始苦労の連続だった当線は1964年冬、動力を内燃化。
三岐や熊延からやって来たキハに再生を託すも、赤字体質には抗えず72年春に短い一生を終えました。一方、琴電へ嫁いだ3両の100形は、日立製の高性能車という出自の良さが功を奏してか2006年まで長く活躍、明暗を分けることになりました。
三岐や熊延からやって来たキハに再生を託すも、赤字体質には抗えず72年春に短い一生を終えました。一方、琴電へ嫁いだ3両の100形は、日立製の高性能車という出自の良さが功を奏してか2006年まで長く活躍、明暗を分けることになりました。
▲いずれも平木 1989-2
1964年は私がやっと関西まで足を延ばした年です。1968年、九州旅行の帰りに下津井電鉄に寄り道しましたが、玉野市営は内燃化ということで素通りしています。少しでも時間を割いて見ておくべきでした。
返信削除モハメイドペーパーさん
返信削除60年代は国鉄を含め撮るものが山のようにあったでしょうし、車両も04と戦後製の熊延キハですから、この超地味なミニ路線は見逃されがちだったでしょうね。私も岡山なら断然井笠と下津井へ行ってしまいます(笑)。ただゲテモノ度NO1の野上クハ201は内燃化後もそのまま残り、廃線まで放置されていたようで、これは見たかったです。
昭和30年代の宇野駅の構内写真を見ると、国鉄の長距離優等列車が賑やかに発着するホームの片隅に、玉野市営電鉄のモハ100形が単行でひっそりと停車していて、存在に気が付かなかった旅行者も多かったでしょうね。北陸地方の小私鉄は経営統合が進んだので、小私鉄王国は岡山県が群を抜いていたようにも。
返信削除モハ100形は戦後生まれらしいあっさりとしたスタイルだったのが、琴電移籍後は尾灯の増設、貫通扉と手すり・正面サボの取付、窓のアルミサッシ化と安全保護棒の取付、屋根の配線追加、前照灯と客用扉の取替など、見比べてみるとずいぶん賑やかに変身しています。生まれ故郷をあっけなく追われても、次の職場で長期間働いたラッキーな電車でしたね。
緑の猫さん
返信削除琴電750形には何度も被写体になって貰いましたが、貫通ドア一つで随分と印象が変わるものだと改めて感じました。パワーがあり過ぎて玉野では持て余していたようでしたが、琴電へ来るや山形交通車・京急・生抜き組と相手を選ばす組んで重宝され、本領発揮といったところですね。
岡山は本当に私鉄が多く、私が間に合った路線だけでも何度も通った片上を始め、下津井・岡山臨港・水島・岡電、これに玉野や井笠を足すとやはり私鉄天国の感ありです。
玉野市営の乗車券は、いいっすネ。
返信削除色の違いは、駅・車掌の区分でしょうか?それとも1区とか2区といった区間に違いでしょうか?
maru-haどの
返信削除やはりこの紙切れに眼が行きましたね!
料金(区間)別に色が違うみたいですが、各駅バラバラで結構いい加減です。
この独特の意匠とサイズ、「市営」の部分が「備南」になっているのを見たことがあり、恐らく創業から廃止まで様式が全く変わっていない稀有な例でしょう。
一々日付印を押してビリっと破って発券、硬券より手間かかりそうですな!