▲EF651112「あさかぜ」 大阪 1980-9
アルバイトの稼ぎと九州ワイド周遊券片手に、初めて大阪駅に降り立ったのは1980年夏休みのことでした。
大垣夜行で出発、各停を乗り継ぎながら別府鉄道や下津井電鉄、可部線やセノハチ、宇部・小野田線と「お初路線」で散々道草を食った挙句に、これまた初めての九州入りを果たした訳ですが、この「超」道草の皮切りとなったのが大阪駅でした。
▲別府鉄道キハ2とハフ5 別府港 1980-9
▲下津井電鉄モハ103+クハ24 東下津井-下津井 1980-9
この撮影旅の手始めは「山崎の大カーブ」。
特急や貨物が次々にやって来るこの区間で散々粘り、夕暮れと共に大阪駅に舞い戻って来ました。
▲いずれも山崎-高槻 1980-9
旧型電機が少なくなってきたこの時期、未だ本線を走っていたのは彼らとEF15、セノハチの59だけになっていました。
この69号機を始め、関西地区では米原・宮原・広島区所属の魅力的な機を見ることができました。
富山地鉄への出張列車「立山」もやって来ます。
山陰特急はまだキハ82・181の独断場。
夏休み中ではありませんが、コンパクトカメラを携えた鉄道少年らも見掛けます。
大社までの長距離ランナー・急行「だいせん」は1975.3改正で20系化されました。
こちらは宇高連絡急行「鷲羽」。
最盛期には11往復が設定されていましたが、新幹線岡山開業後に残ったのは夜行の1本のみ。未明の2:53に宇野着、朝イチの宇高連絡船へつながり4:10に高松着という今では考えられないダイヤでした。
富山地鉄への出張列車「立山」もやって来ます。
山陰特急はまだキハ82・181の独断場。
夏休み中ではありませんが、コンパクトカメラを携えた鉄道少年らも見掛けます。
大社までの長距離ランナー・急行「だいせん」は1975.3改正で20系化されました。
こちらは宇高連絡急行「鷲羽」。
最盛期には11往復が設定されていましたが、新幹線岡山開業後に残ったのは夜行の1本のみ。未明の2:53に宇野着、朝イチの宇高連絡船へつながり4:10に高松着という今では考えられないダイヤでした。
▲いずれも大阪 1980-9
さて改札前のプラベンチでは全く眠れず、明け方を待って続行します。
こちらは10系寝台が残っていた北陸急行「きたぐに」。この後1985年に583系に交代、最後はうーむな塗装になったり臨時に格下げされたりしながらも2013年まで残りました。
博多行「まつかぜ」は大阪を8:00に発車し博多着20:50、13時間をかけ山陰本線ほぼ全線を踏破。東の「白鳥」と双璧を成す最長昼行列車でした。
こちらは「西のゴハチ」と共に最も見たかったカニ251。
20系編成時代を彷彿とさせるデンシャながら、ツギハギだらけの何とも痛々しい風体です。
カニ22を叩き直して誕生した2両のカニ25は「あかつき」「彗星」「明星」に組み込まれ、1975.3改正後の車両不足解消に一役買いました。しかしやはり老体が祟って252が僅か3年で引退、たった1両残ったこの251も84年に消えていきます。
▲いずれも大阪 1980-9
かつてEF58+20系の「あかつき」「彗星」「つるぎ」「日本海」の4羽カラスは関東の鉄道少年憧れの的でした。特に大窓機が牽く「あかつき」と「彗星」、これ以上の編成美は二度と現れないのではないでしょうか。
彼らが消えた75.3改正の前夜、その姿を記録しようと各駅はゴッタ返し、鉄道雑誌はこぞって特集を組み、自分の眼瞼に焼き付けることのできない管理人は食い入るようにその文字面を追うだけでした。
関西人には涙が出そうな記事(笑)。
返信削除ありがとうございます。
急行「きたぐに」は関西人が周遊券で北海道へ行く時の
御用達列車でした。
特急白鳥なら足掛け2日で函館に到達しますが
きたぐには3日…
飛行機利用が当たり前の今では考えられない長閑な時代でした。
以前に書いたかもしれませんが
別府鉄道のキハ2とハフ5が出動しているのは
とってもレアな組み合わせです。
通常はキハ101とハフ7でしたから。
にぶろくさん
返信削除20系時代だったら3連泊はしたところでしょう(笑)。
ブルトレは24系化されて興味が急速冷凍されてしまいましたが、EF58始め山陰特急のキハ、北陸急行に福知山線の旧型客レなど多彩な顔触れでした。緩行線や環状線を全然取っていないのは未だに悔いが残ります。
別府への第一目的はハフ7だったのですが、車庫で「屋根が雨漏りして(キャンバスを)張り替えている」と聞きガッカリし憶えがあります。野口線はキハ2でしたし、ハフ5にも乗れて逆にラッキーだった訳ですね。
子供の頃を思い出す画像、懐かしく拝見しました。
返信削除夙川あたりが撮影の定番地でしたが、ゴハチ牽引の客車列車・荷物列車は、
早朝から出撃してよく撮っていました。
また、大阪駅でも、番線を行き来して、撮影したものでした。
鉄 には、良き時代でしたね。
年代も近そうですし
削除たぶん夙川でお会いしてますよ(笑)。
私は1970年~1973年頃まで
夙川鉄橋周辺で撮影しておりました。
73年からSL、75年以降は中小私鉄やトロッコに興味が移り
夙川は通学時に自転車で通るだけになりましたが。
仰る通り、お会いしていますね。
削除中3であった73年までは、苦楽園口駅が最寄り駅でした。
管理人様が以前掲載された、甲陽園線夙川あたりも良く出撃していました。
訂正。中3は、76年でした。
削除私は最寄り駅が阪神香櫨園駅ですが、
削除中高時代は阪急夙川まで自転車で通っていました。
最近は実家への帰省時にはJRさくら夙川を使っています。
交通の便がとてもいい場所ですね。
夜のはまかぜは新大阪行でしょうか。その後は向日町まで回送されて行ったのでしょうね。
返信削除https://imgur.com/UD9wcCI.jpg
こちらは大阪止まりのはまかぜ。宮原に向けて出た直後ですが紫煙が春のホームにたなびいていました。
北マトさん&にぶろくさん
返信削除75.3改正前の大阪はまさに憧憬の世界で、鉄道ファン誌の特集「ブルートレインスペシャル」を暗記するほど読んでいました。
当時は同年代での写真の交換が流行っていて、私も関西在住の鉄道少年とブルトレや特急のスナップの交換に励んでいました(今も保存しています)。
更には岡山。
「月光」「つばめ」「はと」「みどり」「山陽」「玄海」「安芸」・・・今でも同駅発のラインナップは空で言えます(笑)。
関西の鉄道少年に転機が訪れたのは
削除1972年の新幹線岡山開業でした。
上記に挙げられた優等列車のほとんどが(山陽を除いて)岡山始発になり
大阪駅や夙川で撮影する事が出来なくなったのです。
一方、EF65牽引だったブルトレがEF58になり
(小学生にはなぜ先祖帰りしたのか理解できませんでした・笑)
興味を失う事はありませんでしたけど。
にぶろくさん
削除私はブルトレ牽引機は断然EF58がごヒイキですので、逆に関西への憧れが一層募りました。
岡山開業後は昼間帯は確かに若干寂しくなりましたがそれでも「しおじ」「かもめ(1D)」「なは(1M)」「日向」「きりしま」に夜行客レ「雲仙」「西海」「屋久島」「日南」・・・まだまだ魅力充分です。博多開業後は24系化で一気に熱意が喪失しましたが、逆に西日本特急網は強化されましたね。
1970年前後は関西の国鉄黄金時代でした。
削除この頃のネタは尽きないので連投すみません!
当時、関西鉄道少年の「聖地」は向日町運転所でした。
その京都寄りの一角にブルトレ牽引機の「たまり場」がありました。
(配線図によると梅小路機関区京都派出だったみたいです)
71年訪問時にはあかつき、彗星のヘッドマークをつけた
EF65が並んでいましたが、
72年に再訪した時は上記に加えて日本海、つるぎのヘッドマークをつけた
EF58がずらりと並び壮観でした。
子ども心にEF58にはヘッドマークが良く似合うと感じ入った記憶があります。
当時撮影した写真を今見ると、稚拙でピンボケばかりなのがトホホですが(笑)。
それにしても当時の向日町は子供が自由に撮影で歩き回っても
全く叱られないどころか、職員から親切にいろいろ解説をいただきました。
隔世の感があります。
(ブルトレブームでヘッドマーク盗難が問題になったのは数年後でした)
にぶろくさん
削除向日町でのスナップは、小学生時代に関西在住の鉄道少年と写真交換に励んでいましたから、実物は見たことないのにお馴染みです。「溜まり場」があったんですね。大窓のEF58がマークを付けた雄姿は、今でも千尋の海の向こうで手を振る、永遠の憧れです(笑)。
関東では20系が尾久客貨車区、電機が田端た東京機関区でしたが、一般の立ち入りは戦前の要塞地帯のように厳格でした。
12号線さん
返信削除確かこの時は新大阪発でした。
殆どの列車が同駅発で、三脚を構えるには時間がなく、フィルムの感度を800にして手持ちで撮っています。そのお蔭で硬調すぎてプリントに堪えられず、長い間放置状態でしたが今回画像ソフトで何とか修復、デジタルの有難みを今更ながら感じました。