2021年3月28日

和歌山鉄道と和歌山電軌

▲和歌山電気軌道モハ601 伊太祁曽 1961-5 

戦前戦中、大都市圏近郊の中小私鉄には吸収合併の大波が押し寄せ、同時期の国策がこれに
拍車を掛けました。

一方で、この波に乗ることなく独立を保つも、戦後も落ち着いてきた頃に大手に吸収された例というのは余り多くありません。奈良電や信貴生駒電鉄といった、のちの近鉄各線が思い浮かびますが、現在の和歌山電鐵貴志川線もその一つです。

ルーツは1914年創立の山東軽便鉄道、しかし地誌などによると開業時から1067㎜軌間だったようで、31年に和歌山鉄道に改称。戦後のドタバタを乗り切りながらも57年に市内電車事業者の和歌山電気軌道に吸収され、更に南海に呑み込まれていきます。
▲こちらは市内線、三重交通神都線からやって来たモハ700形 公園前 1961-5 

和歌山鉄道は早くからガソリンカーを導入、戦中にこれらを電車に変身させ、珍妙な改造車など多彩なメンバーが闊歩する端緒を作りました。

こちらは1961年5月、事業者が和歌山電気軌道だった頃の記録です。
まずは和歌山鉄道時代のキハを改造したモハ202。似たような日車ガソリンカーのクハ化車は各地にいましたが、モハに化けた例は上田丸子や淡路交通くらいしか思い浮かびません。


モハ601は、阪急75形の車体に南海のブリル台車を組み合わせて誕生。
仲間にクハ602、603がいますが、こちらの前歴はそれぞれ似て非なる旧阪急63形、81形です。

▲いずれも伊太祁曽 1961-5

モハ605は野上電鉄でもお馴染みだった、旧阪神701形。旧阪急の台車を履いています。





▲東和歌山 1961-5

モハ201も和歌山鉄道時代のガソ改造車ながら、こちらは四角四面の電車っぽい車体です。
キハ時代の姿がちょっと想像できません。


片ボギーのクハ801は一見して旧芸備鉄道と分かる風体です。


▲いずれも伊太祁曾 1961-5

社名に応じて切符も変化しています。和歌山電気軌道時代は僅か4年足らずでした。

▲左下が和歌山電気軌道、それ以外が和歌山鉄道。それぞれ独自カラーを主張しています

こちらは南海時代。末期まで車掌氏・窓口氏から買うことができました。
















▲一路線としては券種がバラエティ豊かです

さて、こちらは同時期の市内線です。
戦後まで独立を維持した貴志川線に比べ、市内線の沿革はこの上なく複雑怪奇。ここまで矢継ぎ早に統合や分離を繰り返して来た路線は、他に例を見ないのではないでしょうか。1904年に和歌山電気軌道(初代)として設立後は、大まかに書いただけでもこうなります。

和歌山水力電気(1905)→ 京阪(1922)→ 地場電力事業者(1930)→ 和歌山電気軌道(2代・阪和電鉄系)(1940)→ 同(3代・南海系)(1940)→ 同(4代・近鉄系)(1944)→ 傍系から独立(1947)→ 南海(1961)→ 廃止(1971)

501形は旧南海の木造車、モ50形。
鋼体化ながら高床・二重屋根の古めかしいスタイルで管理的に最も惹かれます。





▲公園前 1961-5

番号や前照灯が剥ぎ取られた跡が痛々しい単車、30形。
「急援車」は「救援車」の誤字でしょうか。前面を見ていると「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」を連想してしまいます。



▲いずれも車庫前 1961-5

短命に終わった連接車、2000形。
フィルムの痛みが激し過ぎ修復不可能なキズ・変色だらけ、見苦しいカットですが凄まじい数の「鬼架線」ですね。


▲公園前 1961-5

管理人が実見できたのは、もちろん南海になってからでした。
雑多な改造電車時代とは比べるべくもありませんが、当時の主役・1201形は名車といって良いでしょう。現路線はデンシャといい駅舎といい何ともうーむで、全く行く気が起きません。
▲和歌山 1989-10

2021年3月21日

「510」の走った日 その3

▲名古屋鉄道モ593 美濃 1998-4

谷汲線で桜を満喫(→ こちらした翌日は美濃町線へ。
どこから情報を仕入れたのか、モ510形の団体貸切列車が美濃町線・美濃まで入る由、これは見逃す手はないと即断です。

510形は市内線・揖斐線の顔という印象がありますが、これは1967年の直通運転用に彼らに白羽の矢が立ってからのことで、デビュー時から大半を過ごした美濃町線の方が縄張りでした。

さて、先ずは市内線を一往復。
毎度お馴染み、車に被られる心配のない千手堂交差点で陣取っていると、黒野からの出庫列車がやって来ました。


すぐに折り返してくる団体列車も同じ場所で。
見たことのない行先票を付けています。


▲いずれも千手堂 1998-4

本命はどうしたものかと上芥見の「路肩軌道」を目指すも、予想どおり脚立&三脚の林立で
立錐の余地もありません。やはり揖斐線のようにノンビリ構える訳にはいかず、無難な津保川橋梁で妥協です。こちらは誰もおらず至ってノンビリ、しかし揖斐線・尻毛橋と似たような芸のない構図になってしまいました。

▲上芥見-白金 1998-4



▲本当はこういう構図をイメージしたのですが 上芥見-白金 2000-7

あまり趣味ではありませんが、ダメ元で「追っ掛け」をしてみると下有知で追い付きました。しかしこちらも砂利道時代からのポイントですから既に満杯、居並ぶ同業者の足の間に座り込ませて貰い、無理やりシャッターを切りました。
▲これが精一杯、しかもピンボケ 下有知 1998-4

振り返ってこれも強引に撮影。
▲下有知-神光寺 1998-4

最後は終点・美濃駅です。
ホームでは主催者が用意したのでしょう、貸切列車の参加者が並んで食事中。
ごった返していた上芥見や下有知の喧騒がウソのように静かで、思い思いにレンズを向けています。


▲いずれも美濃 1998-4

さて、発車を見届けてから帰るつもりでしたが、いくら待ってもその気配がありません。食事を済ませた参加者らは、何やら急拵えの出店を覗き込むなどして急ぐ様子もありませんでした。

あまり510形に思い入れのない同行の友人を待たせるのも気が引け、消化不良ながらこのまま引き揚げることにしました。


▲いずれも美濃 1998-4

エバーグリーン賞を機に走る機会も増えただろう、その時こそ上芥見でリベンジ・・・と軽く考えながら帰途に就きましたが、谷汲山命日に出動することはあってもこちらへ出張して来ることはなく、結局一期一会になりました。
その後も美濃を訪れる機会のないまま、新関-美濃間はこの翌年に廃止の日を迎えました。

▲上芥見-白金 1998-4

2021年3月13日

茫漠の風景


▲住友セメント唐沢鉱山専用線NO14+13 唐沢鉱山付近(?) 撮影年月不明

簡単に手が届く場所にありながら撮り逃すかマトモな記録を残せず、未だに臍を噛む路線・・・残念ながら管理人の場合はこれが非常に多いです。

70年代の上毛・上信線、関東鉄道各線などはその気になればいつでも行けたハズなのに碌な記録がなく、世代交代前の強者がいた時代は拙いスナップばかり。
丁度この頃、国鉄優待列車に熱を上げていたか、鉄道への感心自体が薄れた無気力時代だったせいかも知れません。
▲車庫や駅を一覗きしてオシマイの上信線 いずれも高崎 上:1974-12 下:1976-2

▲旧関東鉄道への初訪問は80年代になってからでした 真鍋 1987-3

そんな中での筆頭格はこちら、葛生にあった住友セメントのナロー。
雑誌でも何度か取り上げられ同種の路線としては夙に有名でしたが、いくらナローと言えども非電化の貨物専用線は縄張外で、東武のEDを撮ることはあってもこちらには振り向きもしませんでした。
▲唐沢鉱山付近(?) 撮影年月不明

・・・という訳で長い前置きでしたが、本日は手元にある何枚かの記録を補正してアップしてみます。

唐沢専用線は葛生駅から少し奥、貨物線が分岐する上白石から出ていた3.3㎞の路線。
石灰石やドロマイトの巨大産地・葛生では古くから貨物線網が整備され、こちらも1938年から石灰や砕石を運搬していました。

ナローながら1日50往復と盛業、しかし盛業が過ぎて列車での運搬が限界になり1980年に「カプセルライナー」方式に転換します。

牽引機は従来からの日立製10トン機に、1974年製の東洋15トン機という陣容。同時期に大型鉱車も登場し、日立機は背中合わせの重連が基本になりました。





▲いずれも唐沢鉱山付近(?) 撮影年月不明

山々は悉く掘り返されて一面の茶色い世界。
鉱山はどこも似たような感じなのでしょうが、緑がない痛々しい風景です。

こちらは鉱山ホッパーの近くでしょうか。
紫色の部分はフィルム原版の変色によるもので、範囲が広すぎて画像ソフトによる救済は無理でした。

▲いずれも唐沢鉱山(?) 撮影年月不明

入換用に残っていた古いカトー。
隣にいる人車は最後まで残り、廃止日の記念列車にも連結されました。

上白石駅に隣接していた基点・住友セメント栃木工場の構内。
1067mmと見紛うほどの立派な軌条です。
▲いずれも上白石 撮影年月不明

石灰石輸送が隆盛を極めていた頃の葛生はまさに「魔境」で、東武大叶線、会沢線、日鉄鉱業専用線、更には石灰業者のトロッコ・・・と多くの路線が山奥へ伸びていました。車両は紹介され尽くした感ありですが、発表されていない沿線風景は未だ数知れずでしょう。

1970年代の鉄道誌は国鉄蒸機や優等列車ばかりを紹介し、地方私鉄はオマケ程度、専用線は異世界。こんな風潮にまんまと流されてきた管理人、この撮影者のように違う視点を持つべきだったと今更ながらに。
▲NO14+13 唐沢鉱山(?) 撮影年月不明

2021年3月7日

四季の谷汲線・春

 ▲名古屋鉄道モ758 更地 1998-4

遠隔地での「桜と電車と」はいつも難題です。
気象庁の開花情報をタイムリーに睨むも、個体差や地域差が大きいこの花には肘鉄を食らうばかりで、「開花率0%」「スッキリ葉桜」ということもしばしばでした。桜狙いで何度か出向いた揖斐・谷汲線ですが、満開のタイミングに合ったのは唯一、1998年のことでした。

日の出と共に向かったのはこちら、ホーム脇の一本桜が目印の更地。
やって来た始発電車のモ758は、車体のリベットが厳つく残っています。
▲更地 1991-4

駅の反対側から。
1948年と早い時期に無人化された更地ですが、交換設備や駅舎の跡地と思しき空地はそのまま残っています。現在は片面ホーム1本、辺りには民家が点在するだけながら黒野方面への客が結構乗ってきました。

▲いずれも更地 1998-4

隣の北野畑。
乗降客10人前後と名鉄では最も少ない駅で、近くにセメント工場がある以外、人の気配がありません。この頃は朝の列車交換がありそのための要員も配置されていましたが、この後間もなく谷汲山命日を除き交換は廃止に、駅も完全無人化されます。

▲北野畑 1998-4

続いて赤石から長瀬あたりへ転戦です。
長瀬の手前、管瀬川を渡る小さな鉄橋もすっかり馴染みの場所になりました。

▲いずれも赤石-長瀬 1998-4

こちらは谷汲付近のアップダウン区間。
モ751は758と比べるとリベットが少なく、ノッペリ感は否めません。

▲いずれも長瀬-谷汲 1998-4

谷汲駅構内にも大きな老木があります。
何世代のデンシャを見続けてきたのでしょうか。

▲いずれも谷汲 1998-4

この日は揖斐線にも転戦。
揖斐線は田圃と住宅地の混在する中を一直線に走ってオシマイですが、唯一の中間駅・清水には桜の巨木が立っていました。本日の当番はモ759です。

▲いずれも清水 1998-4

普段3セクには食指が動かない管理人、しかしこの日は満開に浮かれて名所へも足を伸ばしました。
▲谷汲口 1998-4

山影が迫ってきた頃、最後は谷汲線へ戻り根尾川沿いの区間へ。
この時期としては珍しく晴天が続きました。

▲いずれも北野畑-赤石 1998-4

モ750形はこの後ひと月を経ずして3両の仲間が引退し、この日元気な姿を見せていたモ758・759も運命を共にしました。谷汲線と揖斐線黒野以遠用に最後まで残された751・754・755の3両は、2001年の廃止の日まで慎ましくこの地を守っていきます。
▲稲富-更地 1998-4