1970年代始めまで全国各地に棲息した旧型国電も、後半から徐々に数を減らし始め、80年代に入るや世代交代の波が一気に加速、いよいよ先が見えてきました。
戦前型の牙城となればこれはもう数えるほどしかなく、「王国」の飯田線始め東は身延線や大糸線、そして西では宇部・小野田線といったところでしょうか。
前面の警戒色は頂けないものの、ブドウ色が第一線で活躍する場として一気にメジャー路線に伸し上がった両線、かく言う管理人も末期に何度か通う機会がありました。
▲いずれも宇部新川 1980-9
初訪問は1980年秋、駅弁売りのバイト代片手に初めての九州行の道中のこと。
別府鉄道や下津井電鉄は勿論、セノハチや可部線、福塩線などと散々寄道しながら、この両線でも延べ2日間粘っています。
▲こちらにも当然立ち寄ります 上八木-中島 1980-9
中でも、クモハ42が日常的に走る小野田線・本山支線は外せない存在でした。
京阪神区間の高速運転で鳴らしたクモハ42はその後も飯田線始め地方に転戦、小野田線が終焉の地になりました。単行で行ったり来たりでは何とも役不足でしょうが、残っているだけでも奇跡的かも知れません。
さて、初乗車を果たすべく雀田で待っていると、やって来たのは待ち兼ねた42ではなくクモハ40067。普段はない出番でしょうから幸運と言えなくもないですが、ちょっと拍子抜けです。
▲いずれも雀田 1980-9
その後の訪問でも、やはりクモハ40067だったり僚車の40023(画像3枚目)だったりと、42単行には会えず仕舞いが続きました。
こちらは12年後、4度目の訪問時。
既に旧型国電は絶滅危惧種で、3両の仲間が取り残されたように余生を過ごしていました。
この日の当番、クモハ42006は前後の幌が厳つく残っており、消された前面警戒色と相俟ってやはり男前です。
▲いずれも雀田-浜河内 1992-12
遠目には綺麗に整備されていますが、細部を見渡すとやはりお疲れモード。国鉄時代の銘板が残ります。
▲いずれも雀田 1992-12
こうして最後の訪問もあっという間に終了、この旅のメインだった三井三池専用線を目指すべく、新幹線の客になりました。
▲本線の主役は彼 小野田 1992-12
73系との連結ですが、青梅線でクモハ40は良く乗車しました。
返信削除座れずとも半室運転台からの後方展望が楽しめ、青梅までの乗車も苦にはならなかったものです。
目的はもちろん鉄道公園ですが、かの地に鎮座された同車をまだ拝みに行っておりません。
一度くらいはお目にかかりたいものです。
12号線さん
返信削除青梅線の40は間に合いませんでしたが、古めかしい前サボが良く似合っていましたね。
40は富山港線や大糸線にもいましたし、国府津や大船、幕張と各地の職員輸送も記録できましたので、学生時代から最も馴染みのある電車かも知れません。それだけに雀田で40067を見たときはガッカリしたのを憶えています(今だと罰あたりですが)。
恥ずかしながら青梅鉄道公園は行ったことがなく、どうも保存車両を「置物」扱いして趣味の対象外にする傾向があります。この姿勢は改めるべきかもですね(苦笑)。
旧国の現役時代は
返信削除魅力は感じながらも全く手が出ませんでした。
80系、70系あたりはわかりやすいのですが
それ以外になると形式、形態、車歴、どれも複雑すぎて(苦笑)
私の理解力を超えたジャンルでした。
今、こうして拝見すると地方私鉄に劣らず魅力的ですね。
クモハ40も半流でカッコええやん…とか思います(笑)。
にぶろくさん
返信削除旧型国電の世界は私にとっても「魔境」で、とても手が出ません。73系・40系など1形式だけで分厚い本が一冊出来てしまいますし、読んでもだいたい途中でめげます(笑)。
好んで被写体にしていましたが、そういう訳で貧相な知識ですから片っ端から撮っていた感じでした。
記事を書くに当たって改めて基本から調べてみましたが、やはりディープ過ぎる世界でした(笑)。
ただ、関西急電で鳴らした42系はやはり別格という印象はあります。
後から考えると、本山支線用に三扉のクモハ40が残っても良さそうでしたが、残ったのはニ扉クロスシートのクモハ42。単行可能なクモハ123の転入で遂に廃車かと思ったら、その後も2003年まで走っていたのだから、驚くほど強運の電車でしたね。
返信削除雀田駅は昼寝中の電車を間近で観察するのにうってつけですね。クモハ42は貫通幌や幌枠がある方がやはり格好良いです。
緑の猫さん
返信削除最後にお目にかかれたのが幌付の42006だったのは幸運でした。
クモハ42は勿論ですが、旧型電車にゴツイ幌・幌枠があるとないとでは大違いで、必須アイテムという感じがします。40は使い勝手がやはり良かったのか、第一線から引退後も職員輸送などで比較的遅くまで見られましたね。