近江鉄道には独創的な町工場のような心意気、というか文化があり、その姿勢は静岡鉄道や越後交通に通ずるものがありました。
早くも1930年代から改造に改造を繰り返し、徐々にノウハウが積み上がってくると、1961年からは各方面からかき集めた部品に自社製の車体を載せ、新車を造ってしまいます。脈々と続く車歴も、そうした姿勢の副産物なのでしょう。
さて近江の車歴ラビリンス、続いてはモハ131形の経歴を辿ってみます。
終戦後、極端な車両逼迫を打開すべく、新生・西武鉄道から中古車を融通してもらったのが
131形で、元は武蔵野鉄道初の電車・デハ100形の一派でした。
▲勿論駅舎も外せません 新八日市 2000-8
しかし戦後のドタバタも落ち着き、東海道線全線電化に伴う観光客増もあってか、木造車のままでは格好悪いと1961年から湘南形車体を新造開始、ここから自社製品が台頭し始めます。
モハ131と132は終戦後西武から借り受け、1950年にそのまま当線に定住。当初ダブルルーフだったのを自社で改造、その結果異様に深いシングル屋根になりました。
モハ134+クハ1217コンビも元は武蔵野デハ100形一族ながら、この頃は同社の傑作・元クロスシート車デハ5560形車体に載せ替えられています。全鋼製ながら、しかしやはり老体だったようで、あまり活躍しないまま干されてしまいます。
この後、1969年には500形トップナンバー編成に再改造されました。
こちらは500形変身後の末期姿。
さて最後に複雑怪奇の極地、クハを辿ってみたいと思いますが、「お腹一杯」の方も多いでしょうから、経緯が単純なこの2両だけにして、残りは次回にしましょう。
クハ1214形も武蔵野デハ100形の一派。
こちらも戦後の混乱期に西武から融通してもらった訳ですが、上のモハ131形同様にモニタ屋根をシングルに改造、その後1961年に湘南形車体に生まれ変わります。
こちらも戦後の混乱期に西武から融通してもらった訳ですが、上のモハ131形同様にモニタ屋根をシングルに改造、その後1961年に湘南形車体に生まれ変わります。
▲いずれも彦根 1960-4
▲ムードのあった終点・米原 1984-7
▲高宮にも古い駅舎や施設がありました 2000-8
何の衒いもなく「近鉄電車」と名乗るあたり
返信削除関西人から不人気な理由のひとつかも知れません(笑)。
西武の植民地、出先みたいなイメージでした。
にぶろくさん
返信削除関西各社は早くから「○○電車」と謳っていましたから、少しでもそれに近付きたかったのでしょうね。しかしこのパクリは「おうてつ」と読むんでしょうか。
流石に堤一族のお膝元だけあって戦前から西武系になってしまいましたが、宇治川電気傘下のままだったら生粋の関西系になっていたでしょう。まあ、西武から部品やら車体やらを融通して貰い、これが自社改造のスキルを育てた訳ですから、あまり悪くも言えません(笑)。
元武蔵野のモハ131とクハ1215は、前面を鋼板張りに変更しているように見えますが、木造車は補修が頻繁なので、工作技術の取得にはうってつけですね。モハ134+クハ1217の大きな側面窓は、なかなかモダンで外国の電車みたいです。構内と駅前を大幅整理する前の米原駅の光景も懐かしいですね。
返信削除近江鉄道の車両は改造名義扱いがやたらと多くて複雑ですが、届け出書類の手続きが簡単になるメリットがあったんでしょうか?
緑の猫さん
返信削除モハ134編成は武蔵野鉄道の誇る全鋼製・溶接・クロスシートの車でしたから、当初は優れた造りだったのだと思います。ただ思ったより老朽化が早かったと記録にあり、本家は勿論こちらでも早々と引退したのは残念です。
親会社の西武から次々に中古車を融通して貰ったお蔭で、工作力のトレーニングには丁度良かったのでしょうね。次回記事に書きますクハ1201形も何度も部品を取り替えていますし、これ以外にも中古車体を切ったりつないだりして新車を造った例は多いです。
明治から続く車歴の連鎖も、改造名義の方がお役所手続きが簡単な事情もあるのでしょうが、自分で造ってしまう風土によるものかも知れないですね。
にぶろくさん
返信削除WIKI情報ですが、調べてみましたら本家「近鉄」は1950年から正式な略称として使用開始(それ以前は「日本鉄道」だが百貨店などは既に「近鉄」を使用していた)したとありました。
近江は一度も社名を変えていないですから結構長い間「近鉄」だったのかも知れませんが、まあ知的財産権など曖昧な時代だったでしょうし、本家もあまり口を出さなかったのかも知れないです。
ウィキ見ました。
返信削除「近鉄」は近江鉄道の方が早かったとの事。
近江鉄道には大変失礼な書き込みをしました。
お詫びと共にお手数ですが(可能であれば)
投稿削除をお願いします。
ご無沙汰しております。
返信削除武蔵野5560の3扉化は、窓柱位置をわざわざずらしてまでしており、見た目には奇麗な改造であるのですが、阪急2800よろしく、構体強度上は無理があったのかも知れませんね。他の川造深屋根一族の多くが長寿だっただけに。そう言えば模型作品の如く京急400を短縮したモハ135、136も短命でしたが、これは元の車体が状態不良だったのでしょうね。
雪うさぎさん
返信削除今日は、ご無沙汰しております。
クロスシート2扉車は当初はピカ一だったのでしょうが、これが通勤輸送に災いし無理な改造をせざるを得なくなったというところですね。優雅な大型窓もその大きさ故バランサー付の下降窓にしたら今度は雨漏りが発生したりと、「頑丈で長持ち」というイメージの川造タイプの中では不運な存在でした。
モハ135や136は彦根の片隅でくたびれた姿を晒しているのを見たことがありますが、スタイルはともかく「こんなのを造ってしまうとは」とその時は驚いてしまいました。