▲総武流山電鉄モハ1001 流山 1980-4
1974年早春、馬橋の常磐線ホームからほんの一覗きをして以来、すっかりご無沙汰してしまった流山線。
1980年春、田舎高校を出て上京間もない頃でしたが、普段は車庫に押し込まれているであろうモハ100形最後の1両が「馬橋の外れに停まっている」との情報。これをきっかけに16年振りに再訪、しかしこの頃は旧西武501形が順次登場し、在来車の任務は減る一方でした。
先ずはこちら、主目的のモハ100形の残党、105。
ただでさえ手狭な流山車庫は「新車」登場で余裕がなくなり、玉突き式に追い出された感ありです。
ただでさえ手狭な流山車庫は「新車」登場で余裕がなくなり、玉突き式に追い出された感ありです。
旧南武鉄道モハ100形の彼らは小型で使い勝手が良かったせいか、国鉄でお役御免になった後も東濃(のち琴電)や秩父(のち弘南→日立)、熊本電鉄と、全15両のうち11両が各地に嫁ぎました。
▲いずれも馬橋 1980-4
▲いずれも流山 1980-4
肩身の狭い在来組もやはり西武OB。
モハ1001は新潟・蒲原など各地に仲間のいた211・1211形の一派です。
相方のクハ52は全面Hゴムだらけのちょっと異様な風体になっていました。
モハ1001は新潟・蒲原など各地に仲間のいた211・1211形の一派です。
相方のクハ52は全面Hゴムだらけのちょっと異様な風体になっていました。
▲いずれも流山 1980-4
こちらはオリジナルに近い姿のクハ52。
▲馬橋 1974-2
1975年に東濃鉄道駄知線からやって来たモハ1002とクハ55。
一見して川造タイプのこの電車も旧西武の550形で、北は津軽から南は伊予鉄と各地へ散ったお馴染みの電車です。東濃には2編成4両がお輿入れしましたが、相方の編成は名鉄築港線に移りました。
ところで流山線と言えば、他社に吸収された訳でもないのに何度も社名を変えている会社。
「流山電鉄」などは僅か4年でした。
流山軽便鉄道→流山鉄道(1922)→流山電気鉄道(1951)→流山電鉄(1967)→総武流山電鉄(1971)→流鉄(2008)
▲短い路線ながら様式はバラエティ豊かです
さてこのモハ105、この後留置される位置が微妙に動いていたようですが、客を乗せて走ることは二度とありませんでした。
現在、流山総合運動公園で保存されているキハ31のように、電化当初から当線を支えた立役者として整備されても不思議ではない気もしますが、電車が保存例が殆んどない当時では叶うことはありませんでした。
元西武とはいえ東濃鉄道駄知線のお古を購入するなんて
返信削除面白いですね。
関西で例えると近江鉄道が野上電鉄のお古を買うようなもの?(笑)。
にぶろくさん
返信削除昭和初期製とは言え、やはりこの「川造」は一つのブランドみたいな感じで各社によく売れましたね。全鋼製なのと使い勝手が良かったのでしょうか。山形交通にいたやつも琴電が買いましたし。
野上のお古はかなりくたびれていましたから(笑)、他では使えなかった気がします。
14m級2扉の南武モハ100形が、昭和50年代まで東京近郊の通勤路線で活躍していたのは、今思うと不思議な光景だったようにも。富士急行経由で入線した青梅の車両は、大きな窓が独自性をアピールしていて、窓が小さいおとなしめのスタイルの武蔵野の車両とは対照的です。小世帯ながらも、元南武・青梅・武蔵野・西武・京急と車両の出所は多彩で、こうやって見るとなかなかの電車博物館ですね。
返信削除流山電鉄は独自運営の小私鉄ですが、電車の整備状況は案外良かったですね。クハ52の改造姿はちょっと格好悪かったですが(笑)。
緑の猫さん
返信削除昔から旧西武車は多かったですが(モハ1101も一見京急ながら京急車体に手持ち部品を組み合わせて西武所沢工場で組立て)、現在は完全に西武流山線の感ありですね。南武や青梅車はこれだけのカットしかなく、本当に惜しいことをしてしまいました。
大手の傘下に入らず、ICカードも非対応、民鉄協非加盟と独自カラーが強いですが歴史的な経緯が影響しているのでしょうか。地場路線から発展というのは同じですし経営も楽そうには見えませんが、首都圏とも田舎路線とも違う立地のせいかもですね。
関西に例えればシリーズ(笑)。
返信削除水間鉄道って感じでしょうか。
匿名さん
返信削除規模的にうどん屋鉄道水間線に近いかもですね。
路線長、車両数や同じ独立系なのも共通しておりちょっとビックリです。
この線も東急車に化けてからはすっかりご無沙汰しています。