▲日本硫黄沼尻鉄道 木地小屋-沼尻 1964-10
数多くの名作を生んだ沼尻鉄道。
その魅力については今更あれこれ言うまでもありませんが、手元にある満身創痍フィルムを修復したのをきっかけに、「駅風景」を小ネタにまとめてみました。
マトモな車両写真は登場しませんので、ご承知置きを・・・
僅かな記録からは、撮影者がどういう旅程を組んだのかは分かりませんが、光線のアンバイから察するに、早朝の会津樋ノ口に降り立ち交換風景を撮影した後、次列車に乗り込んだのでは・・・と想像できます。
▲会津樋ノ口 1964-10
会津樋ノ口で交換する混合列車。
管理人と同世代の方々には、「ミキスト」という表現の方が胸に迫るものがあるのではないでしょうか。
小さな客車のデッキにまで乗客らが溢れ、其処彼処には職員の姿が見えます。列車が到着すると、この粗末な駅にも一時の活気が訪れたのでしょう。
▲いずれも会津樋ノ口 1964-10
沼尻駅舎。
早朝の薄ぼんやりした陽光から、ここに着いた時には一気に秋晴れになったようです。3人グループでの撮影行だったのですね。
▲いずれも沼尻 1964-10
川桁と沼尻を除く有人駅は、会津下館・会津樋ノ口・木地小屋の3駅でした。
1960年に交換駅が会津樋ノ口に集約されると残りは無人化され、掘立小屋のような駅舎からも駅員はいなくなりました。
高原の中にポツンと佇んでいた木地小屋駅。
こちらを見ている職員と思しき人物は保線係員でしょうか。
▲木地小屋 1964-10
小さな駅にはもちろん出札窓口があり、切符が買えました。
薄汚れたこの紙切れを眺めていると、窓口氏がガシャンと日付を入れながら滑り出す様子や、受け取りながら世間話に花を咲かす乗客らの姿が浮かんできます。
こちらは1960年に無人化された会津下館と木地小屋。
しかしお気づきでしょうか、会津下館のは1962年(昭37)の発行、しかもきちんとこの時期に即した2等級制です。3等級制時代に無人化されたハズなのに何故・・・これは今でも謎ですが、駅前の商店で委託発売していたのかも知れませんね。
▲乗降風景が眼瞼に浮かんできます
木地小屋から沼尻までの区間は標高差100m、人跡稀な原野や田圃が延々と続いていました。古関裕而の「高原列車は行く」はこの区間をイメージしたのではないでしょうか。
撮影者は沼尻から線路端を歩きながら、清秋の高原を満喫していたようです。隣の木地小屋まで辿り着き、そこからまた列車に乗り込んで旅を続けたのでしょう。
▲木地小屋-沼尻 1964-10
なんとも素晴らしい記録です。
返信削除こんな貴重なフィルムをネットで購入されているのですか?
にぶろくさん
返信削除戦前戦後の古写真や絵ハガキを探していた際に偶然見つけて入手したものが多いですが、当時はこうした風景主体のカットは誰も振り向かなかったらしく、二束三文でした。
過去の貴重な記録が散逸してしまうのは何ともやり切れなく、広く公的な保存活動を願いたいところですね。しかし個人が撮ったこうしたスナップは地元役所が地誌を編纂するのに需要があるくらいで、出版社も博物館も目を付けない感じがします。
最後の写真はいかにも高原列車風で素敵ですね。
返信削除木地小屋~沼尻間の沿線風景の写真はとても少ないと思います。
後年まで沼尻側は軌道跡の面影残していましたが、木地小屋から沼尻へ向かうところは跡が消滅していました。写真はその沼尻へ向けて勾配を登っている所かも知れません。
katsuさん
返信削除ご指摘・解説ありがとうございます。
沼尻側は橋台が残っていたり森を抜ける軌道敷があったりと現役時代を偲ぶことができるようですが、木地小屋辺りは道路や田んぼになっているのですね。
今回の記事を書くきっかけになったのは、冒頭と最後のカットが印象に残ったせいですが、車両が写っていない、あるいはごく小さくても絵になってしまうのは沼尻の魅力だと思います。
これは貴重な写真ですね。
返信削除「♪汽車の窓から…」という歌声が聞こえてくるようです。
また、荻窪ゆきの切符もイイですね。
maru-haどの
返信削除やはり切符に眼が行きましたね!
因みに荻窪駅は、本家とは似ても似つかぬ、泥道の上に物置が建っているような駅でした(当然ホームはなし)。個人的には「酢川野」「白木城」「木地小屋」といった個性的な駅名に惹かれます。
「♪汽車の窓から・・・」を歌いだすと、なぜか途中から歌詞を変えてみたくなるのですが、これは気のせいでしょうかね。