2021年9月26日

蒲原鉄道 曇り空

▲蒲原鉄道モハ31 村松 1998-10

1985年の加茂線廃止以来、一気に「超・地味路線」になった蒲原鉄道。
これで足が遠のくと思いきや、結果的に加茂線存続時代より多く通う羽目に・・・しかしこれは駅舎や駅風景がまだまだ魅力的だった、新潟交通をセットで訪問していたからこそでした。
▲村松 1998-10

1998年秋のこと、この時も新潟交通で早暁から粘った翌日、ノンビリと蒲原へ。
沿線は五泉を出てしばらく住宅街を掠めたかと思うと、あとは道路沿いを一直線に走るだけの単調この上ない風景。あっという間に4.2kmの旅は終了です。
▲今泉-村松 1998-10

沿線では上のようなカットしか撮れませんから、あとは村松に向かうしかありません。
村松の風格ある駅舎は1980年に建て替えられましたが、ホームの風情は古いまま残っています。かつてはこの反対側、1番線から加茂線が発着していました。


▲いずれも村松 1998-10

こちらは全線健在の頃。
線路配置や周囲の建造物は流石に違いますが、ホームの佇まいは変わっていないように見えます。戦後名鉄からお輿入れした木造車・モハ21も綺麗に整備されていますね。


▲いずれも村松 1964-10

次は恒例、車庫を一覗きです。
この日の単行運用は終日モハ31が務めていました。モハ31は弟分の41と共に、中古品の機器と戦後新製した車体を組み合わせて誕生したデンシャで、廃線まで長く主役格でした。


戦前製ながら大人しいスタイルのモハ61は、1958年に西武からやって来た元武蔵野車。同時期に仲間4両が一畑電鉄クハ100形として嫁いでいます。

願わくば彼の出動を期待したかったところ、しかしこの日も出番はないようです。
後で知りましたが暖房の効きの良さを買われて最後まで残っていた由、冬季以外は昼寝を決め込む日々だったのかも知れません。


こちらも元武蔵野車のモハ71。
大正末期のゴツゴツした車体がいかにも頑丈そうなデハ320形一派で、同系車が近江や新潟、総武流山と各地へ散った、お馴染みの形式です。

最後の現役キハ04となったクハ10。
モハ61や71とコンビを組んで朝の2連に活躍していましたが、これが終わるとあとは暇を持て余す毎日でした。




1930年の全線開業時に登場したモハ12。
85年に加茂線が廃止になって以降、ずっとこの場所に据え置かれていました。結局全線廃線の日までここから動かなかったようで、そのまま朽ち果てるように最期を遂げたのでしょうか。



















何度となく覗いてきた車庫ですが、ウナギの寝床を変形させたような、独特の形状の建屋は最後まで健在でした。

詰所に化けて余生を送っていたデ1の車体も、年々朽ちていくように感じました。このままお陀仏になるかと思いきや、ビックリの復活を遂げたのは周知のとおりです。





▲いずれも村松 1998-10

結局この日は秋の陽光に恵まれず、ドンヨリの一日。
あとは専ら帰途に就くだけになりましたが、帰りがけの五泉でスナップです。ホームの雰囲気自体は変わりませんが、真上の跨線橋がいかにも狭苦しい上に、何より構内全体がガランとしてめっぽう寂しくなりました。

▲五泉 1998-10

五泉を発車するとぐいっと90度カーブし、あとは一直線に村松に向かいます。
ここから1往復を見送って打ち止めとしました。
▲五泉-今泉 1998-10

途中駅はたった一つ、坦々と4kmを走ってお仕舞い、デンシャもこの上なく平凡。
これだけ刺激の少ない私鉄ローカル線というのは他にないでしょう。

それでもなお、廃線の日を迎えるまで何度か訪ねることになったのは「新潟交通のついでだから」「自分の縄張りが地方私鉄だから・・・」だけでは片付けらない気がします。加茂線の記憶が影のように頭から離れず、平凡なこの風景の上に無意識に重ねていたのかも知れません。
▲村松 1998-10

2021年9月15日

上毛電鉄 古強者の時代

▲上毛電鉄デハ81 大胡 1962-12

手元の古い記録から、先日は車両写真のない鉄道情景をアップしましたが( →→こちら )、本日は打って変わって「ザ・鉄板・車両写真」を記事にしてみます。電車大写しのカットばかりでツマランと思われる向きもあるかと思いますが、ご容赦のほど。

上毛電鉄は1977年から西武デハ351+クハ1141コンビが大移動してくるまで、開業時メンバーや鋼体化車など古い電車ばかりが闊歩していました。
しかし、当時は鉄道誌が取り上げることもなく、世代交代が一気に進んだニュースも読者投稿コーナーに小さく載った程度。ご近所の上信電鉄と共に「振り向かれない地味路線」の筆頭格でした。

先ずは上毛電鉄と言えばこちら、デハ100形。
1928年の開業と共に川崎車輌からデビュー、戦後早くに諸所改造されていますが、四角四面の無骨さは最後まで維持していました。現在も残るデハ101はこのところのイベント自粛で活躍の場が減っているようで、今後の去就が心配です。


姉妹車のデハニ51形はデハ100形と同時期に登場。
深い屋根にリベットだらけの車体が象徴的だった「川造(川崎造船)形」とは打って変わった独自デザインで、同じ川崎系とは思えません。



デハ81は元東武デハ2形デハ10で、管理人的に最もごヒイキの電車です。
終戦後に叩き直したのを1947年に借り受け、翌年に正式導入。国鉄ロクサンを割り当てられた東武がその見返りとして供出したうちの1両で、51年に前面が5枚窓から不均等な3枚になった以外はほぼ原型のままです。



▲いずれも大胡 1962-12

こちらは唯一自分で記録できたデハ81。
1978年に廃車され、貨物電車の任務はデハ101が引き継ぎました。


▲大胡 1974-3

クハ11はデハ100形と同じ1928年生まれの生抜き組ながら、元は電動貨車のデカ11。この後デハ化、更にクハ化されるも12m級と小型だったせいか早くから一線を退き、75年に引退しています。



元青梅のクハ501は戦後国鉄を経由してお輿入れしてきました。


クハ601のルーツは木造院電モハ1形の一派・サハ25053。
・・・といっても台車だけをリサイクルして残りは1950年に新造しています。戦後早くにデビューしたせいか、リベットこそありませんが戦前製のような古めかしいスタイルです。
▲いずれも大胡 1962-12

まだデンシャの知識など皆無だった頃、家から1時間強の上毛線にはよく乗りに行っていました。とにかくデハニの揺れが壮絶だったことは憶えていますが、残せた記録はお粗末写真ばかり。クハ601も、乗ったついでに撮ったこのピンボケカットだけでした。
▲粕川 1974-3

元鶴見臨港のクハ701は、全国へ散ったモハ110形の1両。
全10両のうち9両が地方で余生を送り、中でも銚子電鉄デハ301や静鉄モハ20は驚異的な長命でした。現場の使い勝手が良かったのでしょう。


▲いずれも大胡 1962-12

車両不足が極度に深刻だった戦後、従来メンバーだけでは追いつかなくなり各地から雑多な木造車を調達しますが、それを西武所沢工場で再生したのが全金車体グループでした。

クハ61はルーツが成田鉄道の木造客車・ホハニ2という代物で、1958年に再生。このグループ第1号になりました。

デハ161の前身は武蔵野デハ100形で、近江鉄道にも多くが嫁いでいます( →→ こちら
こちらも再利用は台車だけで、あとは新造扱いでした。


デハ171は、西武と自社の手持ち部品を組み合わせて1959年に誕生しています。

▲いずれも大胡 1962-12

さて彼ら、1978年から80年にかけ引退していますから、第一線での活躍時代をいくらでも記録できた筈なのに、小学生のお粗末カットしか残せていない。

ちょうど高校の頃「三無主義(無気力・無感動・無関心)時代」に陥っていたせいか、はたまた国鉄優等列車や切符集めに熱を上げていたせいかもですが、いずれにせよいくら臍を嚙んでも噛み切れないと今更ながら。
▲西桐生 1973-8

2021年9月5日

工場街の単行電車

▲鶴見線クモハ12052 大川 1992-8

1992年の「撮影三昧ご乱行記録」から、本日は鶴見線をアップしてみます。
かつて北は仙石線から南は宇部・小野田線まで広く分布した17m国電でしたが、1970年代初頭から急速に生息域を減らしていきます。最後の砦となったのは以外にも首都圏でした。

1973年春、首都圏の「王国」だった鶴見線から一気に撤退かと思いきや、急カーブのお蔭でしぶとく延命したのが2両のクモハ12。1.0kmの大川支線に押し込められながらも、坦々と日々の任務をこなしていました。
▲クモハ12052 大川 1992-8

そのまま同支線で生涯を終えるとばかり思っていましたが、1985年に閑散時間帯用として白羽の矢が立ち本線に登場、引退前の花道を飾ることになりました。

こちらは武蔵白石までの区間列車。
アングルも立入りスペースも限られる支線に比べると、本線はやはり自由度が増します。

▲安善-武蔵白石 1992-8

武蔵白石で一休み。
2両の仲間のうち12052はリベットが目立つ厳つい風体です。側面の保護棒は1991年から取り付けられましたが、やはり目立ちますね。

▲武蔵白石 1992-8

大川を出た直通電車が武蔵白石のポイントを渡って行きます。
改めてフィルムを見返すと電車が真っ黒なカットばかりが目立ちますが、光線がどうにも扱いにくい事情によるものでした。


▲いずれも大川-武蔵白石 1992-8

鶴見駅で発車待ち。
クモハ12052とは巡り合わせが良かったのか、毎回会えました。



▲いずれも鶴見 1992-8

海芝浦行が鶴見を発車。
▲鶴見-国道 1992-8

昼間の任務が終わると大川支線へ舞い戻って来ました。
ラッシュ時間帯も終わり、誰もいなくなった武蔵白石で発車を待ちます。


▲武蔵白石 1992-8

大川に到着。
元から本数の少なかった支線でしたが、この頃は毎時1本程度の列車がありました。
現在は平日朝夕だけの1日9本、土休日に至っては1日3本しかなく、文字どおり都会の超ローカル線になってしまいました。
▲武蔵白石-大川 1992-8

夜の帳が下りた大川で発車を待つクモハ12052。乗客の姿はありませんでした。


▲大川 1992-8

さて彼ら2両、本線に躍り出て大車輪の活躍をするも長くは続かず、1994年に古巣に戻り1.0kmを行ったり来たりの倹しい生活を再開します。しかしこちらも安住の地とはならず、96年に20m車が入線するや、彼らに追われる形で長く勤めた職場を去ることになりました。

そしてこれが、営業線から17m国電が潰えた瞬間でした。
▲鶴見 1992-8