▲中央線101系特別快速「おくたま」 新宿 1975-10
小学校低学年の年端だったか、色彩というものに拘りというか人一倍関心を持っていました。文房具屋の息子だった同級生に「日本色研」の色見本帳を取り寄せてくれと頼んだり、使いこなせもしないのに、西ドイツ製の100色クレパスセットを親に無心したりしました。
流石にこれらは叶う筈もなく、ならばとお年玉を投じて入手した50色水彩絵具を混ぜ合わせて中間色を次々に作り、例えばレモン色からダークグリーンまで境目のないグラデーションを画用紙に描いたりする、そんなお子でした。
それが昂じて将来は「色」にまつわる仕事、例えばカラーコーディネーターに就けないものかなどと夢想するも、無論甘い世界ではないでしょうし、「何だそれ」と周りからも鼻で嗤われる始末でした。
▲ラインカラー導入前の国電といえばブドウ色 上:武蔵白石 下:我孫子
そんな子供ですから、ことデンシャに関しても先ず塗色に眼が行くように。
中でも単色で勝負する101・103系国電のバラエティに対して志向が強かったようで、当時「1枚ナンボ」だったフィルムを、同じく憧れだった20系特急と共に惜しげもなく彼らに消費しています。
▲上野 1973-9
▲東京 1974-5
国電ラインカラーの嚆矢は1957年、中央線の90系(→101系)の「朱色1号」でした。
ブドウ色やスカ色しかなかった通勤電車にあって鮮烈なデビューを果たす訳ですが、乗客らが初めてこの色を眼にした時の衝撃は如何ばかりだったでしょうか。
▲東京 1979-12
1960年、中央線に次いで登場したラインカラーは山手線の101系「黄5号」。
しかし63年に「黄緑6号」の103系が登場するとこちらが山手線の顔になり、101系は総武緩行線に転属します。この3色の誕生によって、最初期のラインナップが揃いました。
路線ごとに電車を色分けし、誤乗車を防止するアイデアは営団地下鉄を始め、広く各方面に波及しました。黄緑6号は現在も山手線カラーとして君臨すると共に、関西線や横浜線など各路線で採用されています。
▲大崎 1980-4
第4弾は1965年に登場した京浜東北線の「青22号」。
こちらも京阪神緩行線や中央西線、阪和線、和田岬線、筑肥線と各地の103系に使用されました。
▲下十条電車区 1975-7
50両の小世帯だった青22号の101系。
103系化が進んでもなお72系が闊歩していた京浜東北線にあって、置き換えを加速すべく中央線からの転属組が助っ人になりました。
▲秋葉原 1975-1
「黄5号」は当初山手線カラーだったのが総武緩行線へ移り、そのまま総武カラーとして定着しました。
▲亀戸 1975-1
黄5号は赤羽線や南武線、鶴見線でも使用されています。
▲池袋 1974-1
ラインカラー第5弾は1967年にデビューした常磐線の「青緑1号」。
青系・グリーン系の中間色好きの管理人にとっては、断然ごヒイキのカラーです。
しかし、常磐線と成田線以外の使用例は長い間なかったようで、これは以外でした。JR時代になってから加古川線130系3550番代やキハに採用されています。
▲柏 1974-2
地下鉄乗入れ用の103系派生形式では、グレーの地色にそれぞれのラインカラーを巻いた装束になりましたが、千代田線用の1000番代は1971年に登場。
小学5年の頃だったか、同級生から借りた「鉄道ジャーナル」誌に相互乗入れ特集記事があり、営団6000系と共に眼瞼に焼き付いたのがこの1000番代でした。ブタ鼻ライトは頂けませんが、独自形状の窓にJNRロゴが鉄道少年には新鮮に映ったのでしょう。
▲松戸 1976-2
こちらは東西線乗入れ用1200番代。
この後、先輩格の301系と共に帯が青に変更されます。
▲三鷹 1976-7
1979年暮れ、首都圏最後の旧型国電の牙城だった鶴見線にも、都落ちした101系がやって来ます。黄5号に統一されるまで混色編成が見られました。
▲いずれも浅野 1979-12
1970年代末まで72系が残った横浜線では、73年から蒲田電車区の103系が充当されるようになりました。こちらも青22号との混色編成が見られましたが、黄緑6号に統一され現在も当線のラインカラーになっています。
▲八王子 1976-7
ラインカラーはローカル線にも波及し、ブドウ色やスカ色しかなかった旧型国電のイメージも一変します。黄緑6号は仙石線や可部線へ、青22号は大糸線や富山港線へ・・・といった具合に版図を広げていきました。
そしてJR各社もラインカラー化策を更に拡大、北海道から九州まで多種多様な顔触れが揃いましたが、これはまさに端緒となった101・103系の功績と言って良いでしょう。
▲上八木-中島 1980-9
田舎高校を出て上京し、早速入部した大学鉄研メンバーにこの話をすると「栃木からわざわざ103系を撮りに来た」と揶揄されたような気がします。101・103系はラッシュ地獄の象徴のような存在である上に、まだ引退の話もなかったですから「何でそんなものを撮るのか」と訝ったのも無理からぬことかも知れません。
ちょうどその頃、最大の関心事は地方ローカル私鉄や旧型電機・旧型国電に傾きつつあり、彼らを目指して全国放浪の旅を始めていました。そして同時に、色彩への情熱が少しずつ冷めていったのも、この頃からでした。
▲上野 1974-8