2021年11月25日

1981年北陸行 その1

▲北陸鉄道モハ3744 加賀一の宮 1981-8

学生時代の長い夏休みは、前半はアルバイトに精を出して旅費やフィルム代を稼ぎ、後半はすっからかんになるまで撮影行で使い果たす・・・というのが定番の過ごし方でした。

しかし撮りたい相手が限りなくいた時代ですから優雅な旅など眼中になく、少ない軍資金でいかに多くの路線を回れるかばかりを考え、成果を鉄研仲間と競っていたような気がします。


▲京福電鉄モハ283 永平寺 1981-9

1981年の夏休み、この日「北陸ワイド周遊券」片手に勇躍乗り込んだのは、何を血迷ったのか急行「能登」のA寝台。長く憧れだった10系ロネも早晩消えるだろうし、乗れるうちにとバイト代を叩いての大決断、やはりこれが最初で最後のロネ体験になりました。


▲発車間際に決断したのかも

さて、もちろん一睡もできずに定刻に金沢到着、真っ先に向かったのは北陸鉄道。
1978年春、初めての北陸行では訪問先を選択せざるを得ず、迷った挙句に振ってしまった路線でした。

車庫を覗くのは後回しにして、先ずは終点の加賀一の宮まで乗車。
折り返し時間に余裕があったのか、車両一辺倒のこの時代にしては珍しく駅舎内も撮っています。


▲いずれも加賀一の宮 1981-8

白山下からやって来たモハ3744に乗り込んで、次は鶴来で下車。
野町方の田圃に立ってみますが、冬ならバックに雪山が映えるこのポイントも、この時期は全く絵になりません。


▲日御子-鶴来 1981-8

石川線の主力、モハ3740形3744。
かつて名鉄瀬戸線の特急、それ以前も本線の優等列車で鳴らした元モ900形で、1978年の瀬戸線昇圧と共に4両がお輿入れして来ました。入線時既にご老体でしたから、外板や貫通扉、窓などがリニューアルされています。全7両のうち、残り3両は福井鉄道へ嫁ぎモハ140形に転身しています。




同じ名鉄OBながらこちらは元モ3300形のモハ3770形。
3740形より一足早い1966年にやって来ました。こちらも諸所改造され、相方のクハ1720形は側面がバス窓に変わっています。

▲いずれも鶴来 1981-8

続いてはオリジナルメンバーです。
モハ3750形は1951年、加南線用に登場したモハ5000形がルーツで、温泉客を見込んでセミクロスシートにR付窓と優雅な出立ちで登場しますが、その後お馴染みの北鉄顔に更新されました。

名鉄車よりも新しく使い勝手が良かったのか、主役が東急7000系に交代した後も更新されながら残ります。


後輩格のモハ3730形は1956年にサハとして登場しました。
浅野川線にいたモハ3200形や3300形は同系車です。



モハ3760形。
3750形の兄弟分ながら、こちらは当初から通勤車仕様でした。

▲いずれも鶴来 1981-8

一通り現役メンバーを押さえた後は、アタリをつけておいた四十万(しじま)で降りてみました。野町-鶴来間では一番長閑な区間に見えましたが、現在は住宅が建て込む風景に変ってしまったでしょう。




▲いずれも四十万-曽谷 1981-8

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
次回に続きます。
▲鶴来 1981-8

2021年11月16日

新潟交通 雨のち晴れ その2

▲新潟交通モハ18 東関屋-東青山 1998-10

さて、続いて向かったのは白根駅。
東関屋と共に終日駅員のいる主要駅で、当駅止まりの電車も多く設定されています。

所在地が白根市と思いきや、遠く離れた「味方村大字白根」であることはよく知られた話。学校の地図帳などでもここに◎印が付いていましたから、長い間白根市の中心駅だとばかり思っていました。

他駅の佇まいを「大き目の民家」に例えるならば、こちらは頑丈そうな土蔵といった趣きでしょうか。いつから置いてあるのか、手洗所や年代モノの秤が彩りを添えます。



▲いずれも白根 1998-10

側線では本日の仕事を終えたクハ46が昼寝中。
朝2往復の任務をこなした後は、このまま翌未明の東関屋行まで出番がありません。


▲いずれも白根 1998-10

続いては終点の月潟へ。
元交換駅ながら、1993年の部分廃止後は1本突っ込みの棒線駅になってしまいました。
かつては貨物ホームや多くの側線があり、月潟村の玄関として機能していた名残が見られましたが、この頃は線路を剥がされた対向ホームだけが残っていました。

何故か駅舎屋根の庇が一際低く、頭がつかえてしまいそうです。

▲月潟 1998-10

さて、陽が沈むまで沿線に行ってみることにしますが、中之口川にぴたりと寄り添うように走る線路ですから、似たような前面アップ構図になってしまいます。
▲板井-七穂 1998-10

▲木場-板井 1998-10

陽のかけらが消える直前に焼鮒駅へ。ここでモハ24を捉えて打ち止めにしました。


▲焼鮒 1998-10

路面区間と燕付近以外は絵にならんと敬遠していたこの区間ですが、通うきっかけを作ったのはたまたま手にしたTMS誌の連載記事「新潟交通の気になる駅」でした。誌面に展開する駅舎や施設のカット、構内見取図は無知蒙昧の私を触発するに充分で、改めて「駅風景」を撮り直す火付け役になりました。

しかしその縁を作った筆頭格、六分駅は1993年の部分廃止で消え、残った各駅も無人化が加速、側線や施設も合理化されていきます。
木場や白根、月潟も絵になるけど、やはり規模といい各施設の配置のアンバイといい、六分に敵う駅はないなあ・・・と思わず無い物ねだりをしていました。


▲いずれも木場 1998-10

2021年11月6日

新潟交通 雨のち晴れ その1


 ▲新潟交通モハ24 月潟 1998-10

県庁前の路面区間と燕付近の広い田圃。
1993年にこの二つがなくなると、新潟交通線には中之口川沿いの単調な風景だけが残ります。これで新潟通いも「打ち止め」と思いきやそうはならず、99年の廃線まで何度か訪れる機会がありました。

一緒に訪問できる蒲原鉄道の存在もありますが、やはり年季の入った駅や施設がそのまま残り、平凡な電車をカバーしていたからかも知れません。この時代、被写体にしたくなるような鉄道風景が減っていた事情もありました。
▲白根 1998-10

1998年秋のこと、例によってこの時も蒲原鉄道とのセット訪問です。
夜明けを待って最初に向かったのは木場駅。早朝だけ一人勤務のおばちゃん駅長がやって来る委託駅ながら、最後まで交換駅として機能する主要駅でした。

生憎の雨模様の中、先ず到着したのは朝2往復(うち1往復は東関屋-白根間)しか出番のないクハ46。6両いたクハ45形最後の1両で、今回の訪問では外せないデンシャでした。雨は降るわ暗いわですが、傘を差しつつの2台体制で危なっかしく構えます。

続いては日車車体モハの単行、そしてこれも朝にしかお目にかかれない異色のモハ2200形です。ワンマン化改造やフェンダー以外ほぼ小田急時代のままだった2200形も、この頃は前面ドアが非貫通になってかなり不細工になってしまいました。




▲いずれも木場 1998-10

交換待ちのモハ11をやり過ごしていると、主目的のクハ46が折り返して来ました。

小田急車体(クハ45形・モハ16形)は延べ7両が在籍。
いずれもハコは元デハ1400形ながら下廻りの出自や来歴は様々で、自社オリジナルから旧相模、伊那電、東武デハ1形といった陣容でした。路線縮小と共に数を減らし、この運用のために最後まで残ったのがクハ46でした。



▲いずれも木場 1998-10

残りの1本は七穂駅近くで構えます。
このあたりから空は見る見るうちに青一色、眩いばかりの朝日を浴びてやって来ました。

▲いずれ七穂-吉江 1998-10

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
次回に続きます。

▲木場 1998-10

▲白根 1998-10