2022年2月25日

冬の阪堺電車 その1

▲阪堺電気軌道モ166 住吉鳥居前 2021-12

残された稼動メンバー4両。
かつて戦前派が大半を占めていた阪堺電車も徐々に新車・更新車に取って代わられ、現在はモ161形のみとなりました。しかし、最近はこれもお目にかかれるチャンスがめっぽう減ってしまい、数少ない好機と言えば正月の住吉さん詣でくらいでしょうか。

そんな折、HPにクラウドファンディングで修復なったモ161が運行されるとの記事が。
かも「南海アプリ」でその動向がタイムリーに把握できるとのこと、これは行かない手はないと即断、記録しておきたい駅風景もあり早速行動を開始します。

▲南海アプリの阪堺線ページ。赤矢印が「当たり」

さて午後イチから徘徊し始めるも、相手は1本ですからそう都合良くは来てくれません。
先ずは今回の課題である「下町の空気感のある駅」から履修することにしました。

こちらはドヤ街の匂いが残る新今宮駅前。
閉鎖された窓口や売店跡、JR線ガード下の雰囲気がそそられます。三枚目の左端、ホームの袂では一升瓶を抱えたおっちゃんがドッカと座り、何やら独り言も聞こえて来ました。


▲いずれも新今宮駅前 2021-12

この日のモ161は天王寺駅前-浜寺駅前を行ったり来たりの運用。
「下町感」のある駅風景はないかと、初めてここで降りてみます。

極端に狭い路地にひしめき合うように建つ家々、遮断機のない踏切、そこを行き来するおっちゃん・おばちゃん達。魅力的と言って良いのか分かりませんが、画的には楽しい風景が横たわっていました。



▲いずれも安立町 2021-12

安立町で待ってみるも日の短い季節ゆえ、線路はあっという間に建物の影に。
ほかにないか・・・とうろうろ探すうちに時間切れになってしまい、結局こちら、メジャーな姫松付近で狙います。しかしここでも建物の影が迫り、ダーク系の顔が余計黒っぽくなってしまいました。

▲上:姫松 下:姫松-帝塚山三丁目 いずれも2021-12

折り返して来るには時間があり、隣の帝塚山四丁目駅前の喫茶店で小休止。
車に被られないようホームで立っていると、漸くやって来ました。しかし背景だけに陽が当たる全くうーむな出来です。


▲帝塚山三丁目-帝塚山四丁目 2021-12

発車を追い駆けます。
結局、最後のコマだけが何とか見られる画になりました。

▲上:帝塚山四丁目 下:帝塚山四丁目-神ノ木 いずれも2021-12

納得のいく画ができず、こうなったら意地で浜寺駅前からの折り返しも待ちます。
ここでもう一度同じ喫茶店に入ってトイレ休憩、店主に怪訝な顔をされながら、今度は思い切り甘めのやつをオーダーしました。

丁度暮れ泥む時間帯に差し掛かり、他のメンバーも押さえます。


▲いずれも帝塚山四丁目 2021-12

すっかり暗くなった頃、やっとモ161がやって来ました。



▲いずれも帝塚山四丁目 2021-12

消化不良ながら取敢えず押さえてこの日は終了、市内の安ホテルへ向かいました。
・・・次回に続きます。


▲帝塚山四丁目 2021-12

2022年2月15日

ヒヨドリの坂にて

▲神戸電鉄デ1360ほか 鵯越-鈴蘭台 2021-9

ぐずぐずしているうちに訪問する機会を逃してしまい、デンシャも世代交代を終えて何時しか縁遠い路線に。一路線に入れ込む泥沼に一段と嵌りやすい管理人、残念ながらこれが非常に多いです。

神戸電鉄も、戦後の「新性能車」しかいないし、第一あの歌舞伎の隈取のような塗色がうーむだし・・・という理屈に支配され、つとに訪問しなかった路線でした。

しかし、最近は色々なサイトでそそられる作品を見る機会が増え、復刻塗装を記録しておきたい欲望も相俟って、ヤボ用の道すがらやっと初訪問が叶いました。
▲80年代後半まで硬券が残存。他社連絡券もバラエティ豊か



▲神戸高速開通時は各社から記念乗車券が発行された。デザインもお気に入り

予備知識は皆目ない状態で、初めて降りた新開地駅。
構内は何となく薄暗い雰囲気でホームドアもなく、昭和の香りがします。


▲いずれも新開地 2021-9

地上区間に出るや、急峻な勾配をぐんぐん登っていく走りっぷりは流石は登山電車、神戸近郊路線のイメージしか持っていなかったこちらは、まさに目からウロコです。

まず降りたのは、ネットでもよく紹介される鵯越駅。
新開地から僅か4駅目ながら、トンネルを抜け急坂を上る姿をホームからお手軽に狙うことができ、駆け足で回りたい向きには格好の場所です。

1000系列は1965年から100両超が製造された最大勢力。
素人目にはどれも同じに見えてしまいますが、製造年や仕様によって1000・1100・1300に大別され、これに最終グループの1500・1600形が加わります。

▲丸山-鵯越 2021-9

鈴蘭台から坂を一気に駆け下りて来るデ1502。
1500・1600形は1991年に登場した最終増備車で、2編成6両の小世帯です。
かつてはこの隣に菊水山駅があり、人里離れた秘境駅などと紹介もされましたが、休止を経て2018年に正式に廃止されました。

▲鵯越-鈴蘭台 2021-9

しばらく待っていると復刻塗装がやって来ました。
これしかいなかった当時は「赤&グレーの塗分けはちょっと」と思っていましたが、隈取塗装に比べれば断然こちらが秀逸です。
▲鵯越 2021-9

ホームの端まで走ってしつこく追い駆けました。
1300系一派は1971年から製造された1100系の後継種で、1300・1320・1350・1370形と細かく分かれますが、こちらは1350形です。

▲鵯越-鈴蘭台 2021-9

続いては鈴蘭台駅近くの、これまたお手軽な踏切へ。
45両の大所帯だった1100系も、初期グループから数を減らしています。


神戸電鉄のイメージを一新した3000系。
1973年のデビューから50年近くが経過し、各所にお疲れモードが窺えます。最初期車は既に廃車が始まっており、今後加速するかも知れません。


▲いずれも-鈴蘭台 2021-9

急坂を駆け下りるデ1104+1102+1103編成。後ろには鈴蘭台車庫が見えます。
▲鵯越-鈴蘭台 2021-9

雨がそぼ降る中、次は丸山駅へ。
丸山は高台にある森閑とした無人駅で、駅前には数軒の民家や商店以外何もなく、市内とは思えません。住宅街に辿り着くには坂を延々と下って行かなければならず、ちょっとビックリです。

▲長田-丸山 2021-9

ここでも復刻塗装を待つことにしました。
ホーム先端から安直に狙えるので、雨の日にはもってこいです。

▲上:長田-丸山 下:丸山-鵯越 いずれも2021-9 

1357編成を抑えて満足顔で戻ってくるともう一つの復刻塗装、1151編成が発車するところでした。こちらには余りそそられず、軽く流すことにします。



▲いずれも新開地 2021-9

帰途は新開地からそのまま阪急線に乗って梅田へ。
ここで「屋根が白くない」電車を待ってみるも、なかなかやって来てくれません。車両運用の事情は全くの素人ですからボケーと立ち尽くすしかありませんが、結局1時間粘ってこの1本だけでした。

9番線まで同じ会社の電車が居並ぶ姿、何度見ても壮観です。
それにしても、この鏡面のようなホームの光沢にはちょっと狼狽、ここまでテカテカなのは何か理由があるのでしょうか。
▲いずれも大阪梅田 2021-9

2022年2月5日

1981年北陸行 その8(終)

▲福井鉄道モハ121-1 西武生 1981-9

さて朝から猛烈な暑さの中、武生新から歩き出します。
しかし、暑さにめっぽう弱い同行の友人は西武生に着くやベンチにヘタリ込み、そのまま横になってしまいました。仕方ないので、一人で車庫を覗いて回ります。

先ずは最も見たかったこちら、デキ11からです。
見た目のとおり元は電動貨車で、1923年製の福武電鉄デワ1という代物。戦後ボギー化など大改造を受け、更に79年に機関車として転生します。









デキの隣にいたのは倉庫代わりでしょうか、名鉄OBの初代140形・モハ141。
揖斐線でもお馴染みのモ700形で、元瀬戸電のキハとコンビを組んでいました。
連結側はご覧の通りありゃーな状態。
なぜか名鉄時代の車番が露わになっています。
2代目140形は、名鉄900形と長野電鉄300形という、世代も出自も全く異なるデンシャを合体させて誕生。大掛かりな改造がされており、一見しただけでは種車が分かりません。

名鉄では瀬戸線の昇圧、長電は長野駅地下化でたまたま時期が重なり、1978年に揃ってこちらへ嫁いできた訳ですが、それにしても奇想天外な組み合わせではあります。


80形のルーツは南海タマゴ形の電5形。
戦後国鉄63系を割り当てられた南海電鉄が、その見返りとして地方へ放出した電車の一つでした。

1956年にこの車体に載せ替えられ、その後もカルダン化されたり冷房が載せられたりして、新車に近い姿になりつつ2006年まで長命を保ちます。

3両の電機のうち、最古参は1935年生まれのデキ1。
81年の南越線廃止で引退に近い状態に、その後殆ど動くことなく86年に除籍されます。



戦後製のデキ2は大人しいスタイルで好感が持てます。
三井三池が発注したのを融通して貰ったと言われていますが、戦後のドタバタ状況下ではこうした例も珍しくありませんでした。


車庫の中にいた120形が顔を出してきました。
120形は戦後初の完全な新車で、いわゆる省規格型。当初は単行での運用でしたが、1972年にクハ150形(元名鉄3000形)を相方に固定編成化されます。毛色の異なる者同士を合体してしまう風土はこの頃からあった訳ですね。


▲いずれも西武生 1981-9

一通り撮り終えて駅に戻ってみると、同伴者氏は依然として待合室ベンチに臥したまま。
「120形が外に出てるぞ」と振ってみますが、「俺はいい」と冷凍マグロのようにピクリとも動きませんでした。

さて、締めはこちらへ向かいます。
暑さに加え、朝から碌なものを食っていないので管理人もスタミナが切れ、交差点の片隅から安直にシャッターを切ります。2代目140形のうち、異色の143編成は鯖浦電鉄モハ42+名鉄900形という組み合わせでした。


▲いずれも市役所前 1981-9

これにて福井鉄道も無事に終了、合宿の集合場所・七尾線羽咋へ向かうことにします。
写真が残っていないのでこの後の記憶はスッポリと抜けていますが、例によって国民宿舎で乱痴気騒動を起こし、後は正体もなくひたすら眠ったのでしょう。

翌日は生気を消失した顔で金沢運転所を見学、そのときの成果がこちらです。
ここには戦前形もいないし、見たような国鉄車両ばかりですから力も入りませんが、そんな中、目を見張ったのが異形の架線検測車・クモヤ494形。相方のクモヤ495と共に1編成しか製造されなかった孤高の存在でした。



▲いずれも金沢運転所 1981-9

こちらは途中の七尾線車中から。
スロ改造のオハ41が視界に入ったので、ブレながらも無理やりシャッターを押しました。20m・2ドアの超ロングシートは壮観だったでしょうね。


▲津幡 1981-9

金沢の端から出ていた七尾線もスナップ。
国鉄ターミナルらしい広い構内があったこの駅も、もうちょっとマトモに記録しておけば良いものを、どうも力が入っていないようです。


▲金沢 1981-9

さて、締めは当時の福井鉄道の顔・200形です。
1960年の登場以来、50年以上に亘り1編成も欠けることなく急行運用をこなしてきた功労者で、晩年リバイバル塗装になってからは俄然人気者になりました。

最後に残された203編成は車庫でくたびれた姿を晒していましたが、クラウドファンディングで21年度中を目途に整備される由。動態でないのは残念ながら、スクラップを免れて一安心といったところでしょうか。

延々と引っ張ってきた81年北陸私鉄めぐり、これにて終了です。
最後までご覧頂き、ありがとうございました(礼)。


▲市役所前 1981-9