2022年4月26日

貴志川線の夏

▲南海電鉄モハ1241 山東-大池遊園 1992-8

1980年代、関西大手私鉄では近代化が一段落して戦前型もほぼ壊滅、残るは南海貴志川線だけになっていました。中小ローカルに比べると、古い電車と言えども大手はどうも二の次になってしまう管理人、これまで近鉄伊賀線や内部・八王子線は訪問したものの、いずれも中小路線めぐりの道すがらでした。

1992年夏のこと、この時も野上電鉄を散々撮り回った後の寄り道。
たまには少し時間を掛けようと、珍しく丸1日を費やすことにしました。

▲上:野上電鉄モハ31 下:モハ24車内 いずれも1992-8

さて和歌山に投宿の翌日、早速スタートです。
1201形は80年代半ばから前照灯ブタ鼻化や窓のHゴム化が進み、ちょっと不細工になりました。


▲和歌山 1992-8

▲最後まで手売り切符があった

先ずはこちら、初めて定番撮影地・大池遊園で降りてみました。貴志川線では唯一、山間の雰囲気が切り取れる区間です。


▲いずれも山東-大池遊園 1992-8

続いては大池の袂からお決まりのカット。
既に先達の作品で散々見てきたせいもありますが、屏風絵のようなちょっと「出来過ぎ感」が否めないですね。



▲いずれも山東-大池遊園 1992-8

ド定番過ぎて直ぐに飽きてしまい、駅の反対側へ。
こちらは視界は開けていますが、山東側と違って住宅地が迫ってきています。

▲いずれも大池遊園-西山口 1992-8

大池遊園は元有人駅。
この位置から振り返った場所に駅舎があった筈ですが1枚も撮っておらず、あまりそそられる建物ではなかったのかも知れません。

▲いずれも大池遊園 1992-8

伊太祁曽で列車交換。
モハ1201形は総勢70両超を誇った主力でしたが、1973年の昇圧時に揃って本線から撤退、取り残された貴志川線が最後の牙城になります。仲間のうち28両が近くの水間鉄道(12両)と京福電鉄福井支社(16両)へ再就職、長く余喘を保つことになりました。






伊太祁曽駅舎。
山小屋風の駅舎は和歌山電鉄となった現在も残っています。


▲いずれも伊太祁曽 1992-8

伊太祁曽に到着するモハ1218。
暑さにめげたのか同じ電車が行ったり来たりに飽きたのか、まだ明るいですがこれに乗って帰途に就くことにしました。
▲伊太祁曽 1992-8

さて現在、ビミョーな変貌を遂げている貴志川線。
そうは言っても、「たま駅長」やビミョーな電車といった誘客装置が追い風にならなければ廃線になっていたかも知れないのですから、あまり悪くも言えません。

しかし、猫好きとしては「ニタマ駅長」にはそそられるものの、某デザイナーの手に成る「度を超えたいじり過ぎ電車」「スーパー何だこりゃ駅舎」を見ると全く訪問する気が起きません。事業者としては一部の鉄道好きよりも、広く一般利用客の方を向かなければなりませんから、それも仕方ないのでしょうけど。
▲伊太祁曽 1992-8

2022年4月16日

四季の谷汲線・冬(2)


▲名古屋鉄道モ755  赤石-長瀬 2001-1

岐阜駅前は晴天でも、谷汲まで辿り着くと大雪。
市内線・揖斐線と乗り継いで1.5時間ほどの近さながら、冬の谷汲線沿線は厳しい気候であることが知られています。しかしどうにもタイミングが合わず、雪原と電車の組み合わせに出会えたのはたった1回でした。

週間天気予報を連日連夜睨みながら、大雪警報だ、それ行けってんで谷汲行を即断したのは最後の冬を迎えた2001年始めのこと。
しかし勇んで向かったはいいものの、あまりの大雪に身動きが取れなくなり、まだ明るいうちから這う這うの体で黒野まで戻ってくると、駅近くの安ホテルに着くや即ダウンという顛末でした(→ こちら)。

▲黒野 2001-1

このままでは運休か・・・との不安はどこへやら、翌朝は打って変わった雪晴れ。
拍子抜けながら先ずは更地-北野畑の切り通しで陣取っていると、ラッセルを付けたモ755がやって来ました。


▲いずれも更地-北野畑 2001-1

赤石近くを行くモ755。
一面の新雪を踏みながらやって来る赤い電車、ちょっと日の丸弁当のようではあります。

▲北野畑-赤石 2001-1

長瀬付近は春夏秋冬、変化に富んだ風景を堪能できるポイントで、もう何回ここで構えたか分かりません。せっかくですから、今回はスノープラウ付の晴れ姿を優先することにしました。


▲いずれも赤石-長瀬 2001-1

長瀬駅に近い踏切でレンズを取っ替え引っ換えしながら粘ります。
1998年春のダイヤ改正以降、モ750形は751・754・755の全3両という慎ましい陣容になりました。

▲いずれも赤石-長瀬 2001-1

長瀬から谷汲寄りのアップダウンコースへ。
公道からお手軽に狙える場所ながら、こちらも四季折々の変化が楽しめる場所でした。


▲いずれも長瀬-谷汲 2001-1

どこで情報を仕入れたのか、この日は地元愛好会の貸切電車が揖斐線に入る由。
同じ電車が行ったり来たりに少し飽き始めたこともあって、こちらに転戦です。背景がちょっとゴチャゴチャしていますが、広めの構図を取ると雪山が遠望できました。忠節-黒野間に750形が走るのは1998年春以来のことでした。
▲政田-下方 2001-1

風もなく、大吹雪に見舞われた昨日がウソのように、穏やかな一日でした。


▲長瀬-谷汲 2001-1

2022年4月6日

石松電車への挽歌 その2


▲静岡鉄道モハ6・モハ7・ハ3 遠州森町 1959年

静岡鉄道には町工場の心意気というか、何でも自分で造ってしまう文化がありました。
秋葉線のメンバーも戦前の強者を叩き直した上、台車やらパンタやら主要部品の殆どを手造りし、結果このような唯一無二の個性派に

その心意気はもちろん秋葉線に限らずメイン路線の清水静岡線でも発揮され、1000系誕生前の同線は手造り電車のオンパレードでした。


▲廃止時に配られた無料の「しおり」。記念グッズとしては最古の部類

さて、終点の遠州森町にはささやかな側線があり、電車たちが休む姿が見られました。
モハ3はダブルルーフを丸屋根に改造、パンタもこれまた独自形式の菱形に付け替えられて、仲間のモハ1とは印象が随分と違います。後ろのハ5は玉電をルーツとする元モハで、ブリル21E台車に片鱗が残っています。

下のモハ7は1959年の記録ですが、まだ「Yゲル二刀流」。
この後これを自社で合体、世にも珍しいゲテモノパンタが誕生することになりました。



▲いずれも遠州森町 上:1962-4 下:1959年

ハ3はオープンデッキ・二重屋根を大改造してこの姿に。
1920年製の新造扱いになっていますが、元は玉電OBではないかとも言われています。








▲いずれも遠州森町 上:1962-4 下:1959年

前回記事と同地点を行くモハ1。周囲の風景からすると晩秋から冬の撮影でしょうか。


▲森川橋-遠州森町 1959年

戸綿口の集落を伸し歩くモハ1。
今回管理人が一番惹きつけられた風景ですが、多言は要しないですね。


▲戸綿口-森川橋 1959年

秋葉線が姿を消した1960年代初頭は、まだまだ地方私鉄に元気があった時代。
しかしこの後間もなく、高度成長とモータリゼーションが怒涛のように襲来し、容赦なく襲いかかる大波に地方の小さなデンシャ達は一溜りもありませんでした。そしてこの頃から、いつ果てるとも知れない「廃線ブーム」の幕が開くことになります。

「トラム見直しの機運がもう少し早ければ、ヨーロッパのように街と共生できたのでは」と色々な機会で見聞きします。しかし、それは高度成長と引き換えに、環境破壊やデンシャ軽視といった愚行を散々繰り返した後だからこそ、尤もらしく言えることなのでしょう。


▲飯田 1962-4