2022年4月6日

石松電車への挽歌 その2


▲静岡鉄道モハ6・モハ7・ハ3 遠州森町 1959年

静岡鉄道には町工場の心意気というか、何でも自分で造ってしまう文化がありました。
秋葉線のメンバーも戦前の強者を叩き直した上、台車やらパンタやら主要部品の殆どを手造りし、結果このような唯一無二の個性派に

その心意気はもちろん秋葉線に限らずメイン路線の清水静岡線でも発揮され、1000系誕生前の同線は手造り電車のオンパレードでした。


▲廃止時に配られた無料の「しおり」。記念グッズとしては最古の部類

さて、終点の遠州森町にはささやかな側線があり、電車たちが休む姿が見られました。
モハ3はダブルルーフを丸屋根に改造、パンタもこれまた独自形式の菱形に付け替えられて、仲間のモハ1とは印象が随分と違います。後ろのハ5は玉電をルーツとする元モハで、ブリル21E台車に片鱗が残っています。

下のモハ7は1959年の記録ですが、まだ「Yゲル二刀流」。
この後これを自社で合体、世にも珍しいゲテモノパンタが誕生することになりました。



▲いずれも遠州森町 上:1962-4 下:1959年

ハ3はオープンデッキ・二重屋根を大改造してこの姿に。
1920年製の新造扱いになっていますが、元は玉電OBではないかとも言われています。








▲いずれも遠州森町 上:1962-4 下:1959年

前回記事と同地点を行くモハ1。周囲の風景からすると晩秋から冬の撮影でしょうか。


▲森川橋-遠州森町 1959年

戸綿口の集落を伸し歩くモハ1。
今回管理人が一番惹きつけられた風景ですが、多言は要しないですね。


▲戸綿口-森川橋 1959年

秋葉線が姿を消した1960年代初頭は、まだまだ地方私鉄に元気があった時代。
しかしこの後間もなく、高度成長とモータリゼーションが怒涛のように襲来し、容赦なく襲いかかる大波に地方の小さなデンシャ達は一溜りもありませんでした。そしてこの頃から、いつ果てるとも知れない「廃線ブーム」の幕が開くことになります。

「トラム見直しの機運がもう少し早ければ、ヨーロッパのように街と共生できたのでは」と色々な機会で見聞きします。しかし、それは高度成長と引き換えに、環境破壊やデンシャ軽視といった愚行を散々繰り返した後だからこそ、尤もらしく言えることなのでしょう。


▲飯田 1962-4

6 件のコメント:

  1. 遠州森町の配線も魅力的ですね。
    模型化したい雰囲気です。
    ハ3が留置されているのは貨物ホーム?

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  2. にぶろくさん

    駅舎寄りの2線が旅客用、残る1線は貨物兼留置線だったようです。
    この手前にも留置線と小さいターンテーブルがあり、模型以上に模型的ですね。
    乗降風景やハの解結風景を想像すると眠れなくなり、精神衛生上宜しくありません(笑)。

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  3. 機回り線が無さそうなので
    昔の近鉄内部線四日市駅みたいな感じと
    勝手に想像します(笑)。

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  4. にぶろくさん

    容易に方向転換できそうにない所は同じで、別所温泉のサハ付け替えも同類かもですね。
    ローカル好きとしてはこうした不効率にたまらなく惹かれるのですが、合理化もやり尽くした現在では望むべくもないのは寂しいを通り越しています。

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  5. 何度も失礼します。
    最初のカットに写っているモハ6が
    構内入換用だったのかもしれません。
    或いはハ3は駅員2人くらいで押せば動きそうなので
    案外人力だったのかも(笑)。

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  6. にぶろくさん

    軽便だと客車や貨車をヨイショと手押ししている風景を見たことがありますが(沼尻や九十九里)、いくら小さいとは言えサブロクはどうでしょう~秋葉線のは元電車や玉電ですから重たそうです(笑)。

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