2022年6月28日

工場街の古豪電機 


 ▲岳南鉄道ED501 比奈 2003-11

2001年秋、これでもかと通い詰めた名鉄揖斐・谷汲線が廃止されてしまうと、どこにも行く気がしなくなりました。いわゆる「ロス状態」というやつでしょうか、近場でチマチマ撮ることはあっても、どうにも気合が入りません。

デンシャや沿線風景に惹かれて足繁く通った路線・・・片上鉄道や野上電鉄、上信のデキ貨物、南部縦貫鉄道に新潟交通・・・次々に彼らが姿を消していく中、揖斐・谷汲線は「最後の砦」のような存在でした。その砦が陥落した訳ですから、脱力感はハンパではなかったのでしょう。



▲最後を迎えた2001年は「月2」ペースで通いました 谷汲線・長瀬 2001-1

そんな中、辛うじて「突っ支い棒」になっていたのが岳南鉄道の電機。
入換え専任ですから走る区間は短いし沿線は殺風景、しかし昭和初期生まれの電機が動く姿にはやはり惹かれました。

ロス状態から回復しつつあった2003年暮れのこと、この日も比奈駅のホーム端から構えていると、ED501が岳南原田方から静々と近付いてくるのが見えました。続いて本線牽引機のED402も単機で登場です。



▲いずれも比奈 2003-12

両機ともやっと近付いてきたかと思うと、直ぐに停車、このまま午後までお休みモードに入ります。こちらもコンビニお握りで腹拵えしながら、間近で観察することにしました。

▲いずれも比奈 2003-12

13時を少し回り昼寝から覚めると、いよいよ本領発揮。
同じ所を行ったり来たりながら、モーターを唸らせ長い貨車を牽いて動き回る姿はやはり壮観です。本線を走って貰いたいところですが、こちらは2両のED40が死守していました。




本線任務を終えたED402も入換えに加わりました。
冬の長い陽が傾き始める頃、所定位置に機関車が停まったところで店仕舞いです。

▲いずれも比奈 2003-12

電機以外のもう一つの楽しみは、バラエティ豊かな切符。
毎回立ち寄る吉原本町には当時でも珍しかったJR連絡券が残り、版が変わるごとに様式もビミョーに変わるという懲りようでした。
▲吉原本町駅の「お得意様」の一人になりました

2001年秋だったか、ED501目当てに初めて訪問した時は入換用も本線もED40。
車庫の一番奥で鎮座する姿に出鼻を挫かれた経験から、以来本社に電話して確認するのが常になっていました。

「明日の比奈の入換え、ありますか」「はい、ありますよ」「入換え機はどっちですか」「501が動きますよ」「残念、402です」と親切に教えてくれる最後の時代でした。


▲比奈 2003-12

2022年6月16日

「西の63」の記録から


▲山陽電鉄705 須磨 1962-9

戦後の混乱期を支えた立役者、ロクサン。
自前の車両を地方に供出する見返りに、国鉄から配分を受けた経緯は既に記事にしましたが( →→ こちら、今回は手元の古い記録からこちらをアップしてみます。

南海版ロクサンのモハ1501形は総勢20両。
製造途中から既に割当てが決まっていた経緯から、ガラベンや雨樋・室内灯・肋骨天井の内張りなどが南海バージョンへ変更された上で入線しています。当初はオデコ部分に社章が描かれていました。



岸ノ里を発着する当時の主役たちです。
阪和電鉄との熾烈な競争で鳴らした2001形や戦前形の代表格・1201形に加え、新鋭の丸ズームらが本線を疾駆していました。岸ノ里駅はこの後高架化や玉出駅との統合を経て、現在は跡形もなく変貌しています。




▲いずれも岸ノ里 1962-9

こちらは山陽版ロクサンの700形。
彼の登場によって、小型車ばかりだった山陽電車が大型化に向け躍進することになりました。唯一の標準軌ロクサンでしたが、ガニ股姿も全く違和感がありません。


▲いずれも須磨 上・中:1960-3 下:1962-9

引退後も倉庫として往年の姿を留めていた700形。中には台車を履いたままのヤツもいましたが、寸々の差で会うことは叶いませんでした。



▲いずれも東二見 1982-9

ところで南海と言えば、関西では最後まで硬券が残っていた路線。
片道乗車券から特急券までとにかく種類が豊富で、長年蒐集に励むも未だに全貌が掴めません。

社線内も他社連絡券もバラエティ豊か



▲優等列車もこれまた何種類あるのか


▲山陽の硬券は1960年代に消滅

2022年6月5日

ジーメンスを追った日々 その6・夏空のデキ

▲上信電鉄デキ1 千平-下仁田 1992-7

通い詰めた「思い入れ路線」は数あれど、ハードルが最も高かったのは上信のデキ。
何しろ月・水・金のみ1往復の運行、しかもウヤだったり片道だけの日もあるし、これに天候の制約が加わればハードルの高さはもう見上げる程でした。

なけ無しの休暇のほとんどは彼のために消化してしまい、あとは若干の家族サービスくらい。我ながらこの思い入れには呆れてしまいますが、「明日貨物は動くか」と電話すると「上りの1往復だけ動くよ」「デキ1が往復するよ」「残念、お休み」と親切に教えてくれた上信の担当者には救われました。
▲下仁田 1992-7

1992年夏のこと、この時はお馴染みの千平-下仁田間ではなく、珍しく平坦区間から始めました。田圃が青々として来ましたが光線はどうにも良くありません。今となっては「露払い」と言うには勿体ない電車たちで先ずは練習です。


甲高いホイッスルと共に、本命がやって来ました。
黒い電機はバックに溶け込んでしまい、ちょっとうーむな出来です。

▲いずれも山名-西山名 1992-7

次の電車で下仁田へ。
見所はこれまたお決まりの入換え作業です。12:00を少し回ると高崎行の電車をやり過ごし、一呼吸置いてからゆっくりと動き出しました。
▲下仁田 1992-7

奥の方から職員さんがぞろぞろ出てきて配置につきます。
入換えパターンが幾つかあり、毎回動き方がビミョーに違うのでカメラを抱えながら右往左往するのが常でした。2両のデキが同時に動くこともあり、その動線はパズルゲームの画面さながらでした。




下仁田は山が迫った行き止まり地点にありますから、夏は壮絶な暑さ。入換え作業も大変な重労働でしょうね。


▲いずれも下仁田 1992-7

小1時間の作業が終わり、上り列車の準備が調いました。
右に停まっている上り電車を見届けてから出発です。


▲下仁田 1992-7 

本日のハイライトは、やはり千平。ここぞとばかりに連写します。
▲千平-下仁田 1992-7

次列車で追い駆けて根小屋へ。
南高崎方へ少し歩いたこの地点は、小走りでぎりぎり間に合うポイントでした。









                                         ▲いずれも南高崎-根小屋 1992-7

高崎へ戻ると、いつも八高線の貨物が停まっていました。帰りはここから東京までノンストップの新幹線を奮発です。
▲高崎 1992-7

この頃は南高崎・西山名・千平以外は全駅が有人で、中間駅は委託のおばちゃん駅長が仕切っていました。既に地方私鉄の一部でしか見られなかった、窓口から硬い切符が滑り出てくる光景もここでは日常。

尤もデキ貨物のダイヤは、まさに電車と「追いつけ追い越せ」。
撮り終えた途端に走って次列車に乗車、降りたらまた息を切らせながら撮影ポイントへ、下仁田でも走って入換えを追い駆け・・・という按配で自分もデキと一緒に走ってばかりでしたから、切符を堪能する余裕はありませんでした。

▲往復券や連絡券も充実していた



▲下仁田 1992-7