▲銚子電鉄デハ201 外川 1957-4
1973年初夏、管理人が初めてデンシャに向けたカメラは、家から持ち出したメーカー不明の35mm判でした。
当時徒党を組んでいた同級生の中には、発売間もない「コダックポケットカメラ」や「リコーオートハーフ」を手にしている者がいて、無性に羨ましかった憶えがあります。自分のやつの方がレンズは明るく版面も大きいですから鮮明に写るのに、やはり真新しいボディが斬新でオシャレに見えたのでしょう。
中には、これまた家から持ち出したであろう古色蒼然たる二眼レフの者もいて、上から覗くファインダーや左右が逆の撮像、120フィルムの装填に難渋しながらも器用に使いこなす姿に感心しきり。しかし、流石に蛇腹式を持ってくる者はいませんでした。
▲撮影場所不明(外川?) 1957-4
この頃フィルムと言えば35mm・120の2つとポケットカメラの110サイズが標準、というより田舎の写真屋ではこれしかお目にかかれませんでした。鉄道誌で「ベスト判」「ボルタ判」などなど名前だけは知っていても、実物を見る機会はついぞありませんでした。
・・・という訳で長い前置きでしたが、今回は手元にある古い記録から、ベスト判(4×6.5cm)フィルムをデータ化してみました。
こちらは1957年4月とメモ書きがあった銚子電鉄の風景。
勿論まだポール集電で、管理人もごヒイキのデハ201は簡易鋼体化前でした。
▲いずれも外川 1957-4
この頃、デビュー間もないキハ17が快速「房総の休日」として外川まで乗入れていました。戦前から海水浴列車が運行されていた房総半島では、戦後もキハ17の導入モデル線区に指定されると行楽列車網は更に充実し、69年の千倉電化まで「ディーゼル王国」が続きます。
調べてみると「房総の休日」は1955年-60年までの運行、新宿発8:00→外川着11:26。
これに揺られて延々3.5時間は当時も楽ではなかっただろう、仲ノ町・笠上黒生・犬吠で停車するけどホーム長は足りたのか・・・などと余計な心配をしてしまいます。
▲いずれも銚子 1957-4
▲いずれも外川 1957-4
ところで各サイズのフィルムを同じ解像度でデータ化してみると、35mm判では扱いやすい反面あまり拡大はできず、トリミングにも自ずと限界があります。逆に6×7判だと少々のトリミングでは画質はビクともしないけど、データ量が重過ぎて管理人のオンボロPCでは読み込みにも一苦労。一方でベスト判はその中間くらいですから、読み込み速度も画質も丁度良いアンバイ、といったところでしょうか。
さて、こちらは1958年の新京成線・松戸駅。
まだ京成OBの木造車が単行で動いていた頃で、沿線も未開の地でした。
モハ45は1927年、41は25年製ながら大手としては古めかしいスタイルで、21年生まれの先輩格・20形の流れを引き継いでいるのでしょうか。当線に嫁いでくるや、両車ともこの風体のまま自動ドア化されています。
▲いずれも松戸 1958-6
こちらは撮影時期不明ながら、木造のツワモノが闊歩していた時代の大雄山線。
一見西武231形コンビながらモハ45が伊那電、クハ23が木造院電とルーツを異にします。
▲いずれも小田原 撮影年月不明
こちらも元木造院電のモハ20・30形。
上のモハ31はモニタ屋根が残り原型の面影がありますが、下のモハ21は大改造がなされてこのようなカマボコ形に。当時の塗装はグリーンと黄色の湘南色に近い配色でした。
▲いずれも小田原 撮影年月不明