2022年11月23日

ジーメンスを追った日々 その7・冬萌のデキ

▲上信電鉄デキ2 千平-下仁田 1992-2

1992年早春のこと、例によって上信電鉄の本社に電話して、明日のデキ貨物は如何にと聞いてみると「上りが帰ってくるだけ」の由。月・水・金に1往復が基本のデキですが、日によって片道だけの時もあり、勿論ウヤの日もありますから事前の確認は欠かせません。

少し迷いましたが老い先短いデキ貨物、動く機会は逃したくなくやはり出掛けることにしました。時間に余裕のある今回は、まず高崎で昼寝中の電車を瞥見。派手な塗装のデハ250形はこの後間もなくピンク基調に変身します。



▲いずれも高崎 1992-2

1本だけとなると場所選びに迷いますが、結局この日も千平で下車。
いつもはデキと乗る電車の「追いつけ追い越せ」で、撮り終わるや次の電車で追い越して待ち伏せ、直ぐに撤収してまた次の電車で・・・という慌しさも今回はなく、至ってノンビリと待つことができました。
▲南蛇井-千平 1992-2


▲いずれも千平-下仁田 1992-2

線路端を歩き回っていると、頭上に道路のガードレールが少しだけ見え、ならばあそこからこちらも見える筈と迷わず坂を登ってみます。

ネットも「ぐるぐるマップ」もない時代は、1/25000の地図片手に沿線を徘徊して撮影ポイントを物色するのが常でした。国鉄・JRのように撮影地ガイドが碌にない地方私鉄は探すのも一苦労でしたが、半面思いもよらない場所に立てた時の快哉もありました。

列車が陰ってしまいますが、デキの来る頃には先頭に陽が当たるハズ・・・と確信してこのまま粘ることにしました。

▲いずれも千平-下仁田 1992-2

本日の主役が登場。
予習と同じく2台体制で構えます。イメージしたとおり、枯野が低い陽に輝きました。

▲いずれも千平-下仁田 1992-2            

これだけでも満足でしたが、欲を掻いて次列車で根小屋へ。
三脚をセットするヒマはなく、2台を手持ちで構えます。息を切らせながら南高崎方で待ち受けていると、西日を浴びながらやって来ました。


▲南高崎-根小屋 1992-2

引き付けてしつこく連写。
サイドが一瞬だけ光りました。




▲いずれも南高崎-根小屋 1992-2

こうして呆気なく終了。
やはり片道だけでは物足りませんが、春のような陽光に恵まれた一日でした。これであとは帰るだけとなり、委託のおばちゃん駅長に切符を所望です。


▲根小屋 1992-2

帰りの列車を待ちながら、これも恒例になった通学生らをスナップ。
それも直ぐに終わってしまい外でノビをしていると、足元で何やら修行のようにじっとしている客がいます。人馴れしているようで、撫でても眼を細めるだけで逃げようとしませんでした。

しかし「何だよオイ、日向ぼっこの邪魔せんといて」と言われているようで、これ以上チョッカイを出すのは止めました。


▲いずれも根小屋 1992-2

2022年11月13日

野上線挽歌~北山あたり


▲野上電鉄デ11 野上中 1992-8 

1992年の夏のこと、西へ向かうのに定番となった急行「銀河」をこの日も奮発。
スタートの名鉄揖斐線では想定外のモ510形競演に快哉を叫んだと思いきや、続く叡山電鉄では車内でレンズを落としてフィルターが粉砕、僥倖と電撃ショックが矢継早に訪れる波乱の撮影行となりました。

落下したレンズは何とか作動、不安を抱えつつ次はメインの野上電車です。
和歌山の安ホテルで投宿した翌朝は、晩夏らしい空を満喫しながら北山付近を徘徊することにしました。

揖斐線 夏のスケッチ →→ その1 / その2 / その3


▲いずれも野上中-北山 1992-8

早朝2連の任務が終わってしまうと、あとは2両の単行が行ったり来たり。
単行はデ10形専従が長く続きましたが、この頃からモハ25や27が入ることが多くなっていました。


▲いずれも野上中-北山 1992-8

田圃の中にポツンと立つ野上中駅。
無人ながら、小さい駅舎が最後まで残っていました。

▲いずれも野上中 1992-8

こちらも元有人駅の北山。
野上中-北山間は僅か700mですが数少ない左右が開けた区間で、歩き回りながらアングルの選択する楽しさがありました。
▲いずれも北山 1992-8

北山は元交換駅で対向ホームもそのまま残っています。
しかし左側の線路は保守がなされていないようで使用不能でした。時折「ト」がポツンと停まっている姿が見られました。



▲いずれも北山 1992-8

通学生と一緒にチョコボール電車のモハ24に乗車、これで帰途に就きます。立ち客が出るのは朝夕のほんの一時だけでした。
▲モハ24車内 1992-8

1992年という年はアドレナリンの過剰分泌でもあったのか、自分でも信じられない頻度で撮影行に励んだ1年でした。平日しか動かない上信デキだけで6回通ったのに加え、北は津軽鉄道から南は三井三池まで、プラス日帰りで近場にも片っ端から出掛けるご乱行。

そんな中、この日も終電まで粘って夜景撮影を堪能した挙句、翌朝は始発から行動開始という狼藉ぶりでした。

この頃は仕事も私生活も決してヒマではなく、まだ子らは小さいし労働時間は過労死ラインを優に超過。そうした状況下でこの所業とは、制約が高ければ高いほど鉄分への渇望もまた高かった、ということなのでしょう。尤もこの翌年、やはり無理が祟ったのか突然バッタリと倒れてしまい、鉄活動もしばらく休止状態になるのですが。

▲北山 1992-8

▲野上中 1992-8

2022年11月3日

四季の谷汲線・春(2)



▲名古屋鉄道モ758 更地-北野畑 1996-4

「世の中にたえて桜のなかりせば・・・」を体現したかの如く、開花情報が飛び交い始めると毎度落ち着きません。撮りたい対象が激減した今もなお治らないというのは、いかに長年同じようなヤキモキを繰り返してきたかの証左でしょう。

1996年春、地元観光案内のホームページで「八分咲き」を確認したのを見計らい、それ行けってんで週末の急行「銀河」で一路岐阜へ、夜明けと共に行動開始です。絵に描いたような清冽な空の下、先ずは例によって黒野のスナップから始めました。

▲黒野 1996-4

車窓に顔をくっ付けるように沿線の桜を凝視、しかし八分どころか堅い蕾が見えるだけ。不安を抱えたまま谷汲までやって来ると、こちらも勿論同じです。意気消沈するも、気を取り直して馴染みの場所で構えてみることにしました。


▲谷汲 1996-4

天候も光線も申し分ありませんが、何しろ本日の主役がいませんから、どうにも意気が上がりません。
▲北野畑-赤石 1996-4



▲北野畑 1996-4

北野畑駅の手前に菜の花の群生が見えたので、これを中心に据えてみます。
モ758は1998年春の減量ダイヤ改正で引退、これ以降はモ751・754・755の慎ましい陣容で廃線の日を迎えました。

▲いずれも更地-北野畑 1996-4

北野畑から坂を一気に駆け下りるモ758。
▲更地-北野畑 1996-4

更地駅の巨木もこのとおり。
こちらは1分咲きといったところです。桜は個体差が大きい上に岐阜市内と黒野以北ではかなり差があると聞いてはいましたが、これほどとは思いませんでした。
▲更地 1996-4

続いて2連が入線していた揖斐線へ転戦。
清水駅のホーム脇に佇立する2本の巨木も1分咲きでした。

1978年の瀬戸線昇圧に伴ってやって来たク2320はモ750よりも先輩格で、元は愛電の電7形。この日は元気に動き回る姿が見られましたが、翌年にモ780形が登場するや全車が引退してしまいます。


▲清水 1996-4

揖斐線末端区間も早々に切り上げ、次は藪川橋梁へ。
こちらも鉄板のアングルながら、土手に座り込んでしばらく粘ってみました。


▲いずれも政田-下方 1996-4

夕方のラッシュに差し掛かるとモ510も出動。
廃線間際にはイベントや臨時列車で登場の機会が増えたモ510形も、この頃は朝夕しか拝むことはできませんでした。

▲岐阜駅前-新岐阜駅前 1996-4

北鉄OBのモ550形もゆっくりとやって来ます。
ひしめくバスに挟まれて肩身が狭いのか、細身の車体が余計細くなったように見えました。

▲いずれも新岐阜駅前-金宝町 1996-4

辺りが薄暗くなってきた頃、モ513+512を見送って打ち止めにしました。

▲新岐阜駅前-金宝町 1996-4

桜にはスカを食いましたが、モ700+ク2320最後の姿やモ510の活躍も見られて取敢えずは満足。しかしこの花は本当に難敵で、満開の期間+天気+自分の都合(土日)のタイミングが揃わないと無理ですから、肘鉄も食らおうというものです。結局この翌年もスカ、雪辱を果たしたのは翌々年のことでした。
▲相羽-黒野 1996-4