東武佐野線で73・78系が動いていたのはほんの僅かな期間、恐らく1年そこそこでしょうか。1973年当時の主役は3050系とその前身・54系最後の6両でしたが、彼らに混じって平日朝の数往復だけは73・78系2連が入っていました。
しかしその年の暮れ、54系の後を追うように至極ひっそりと消えていきました。
これは想像ですが、途中駅のホーム有効長が足りずに2連しか入れなかったのと、本線系の第一線でまだまだ需要があったせいではないかと思います。
本日のカットはその僅かな運用が終焉を迎えた頃で、まだカメラを持ち始めたばかりの小学生でした。どこから聞きつけたのか、これは記録しておかねばと最寄り駅まで自転車を駆り、なけなしのフィルムを何枚も消費しています。
▲いずれも佐野市 1973-12
館林、行き止まりの1番線は今も同じなのかな。電機は1形式1両のED5000だから、これも貴重なカットです。
返信削除モハメイドペーパーさん
返信削除葛生大魔境への入口・館林1番線は今も行き止まりで、雰囲気はあまり変わっていないと思います。ただ貨物がなくなり橋上駅になってからは全体的に妙に小ざっぱりしてしまいました。太田市や大泉町に多い外国人労働者を眼にする機会が増えたのも時代を感じます。
東武電車と言えばクリーム色とオレンジの2色ですね。舘林や佐野市の懐かしい写真をありがとうございます。
返信削除今の葛生はもはや大魔境という面影は無く何もありませんが、この静けさもなかなかよいところです。
匿名さん
返信削除オレンジ+ベージュ2色時代を知る者にとっては、やはりカステラよりこちらに分がありますね。葛生の魅力は何と言っても貨物線が縦横無尽に走る「魔境度」でしたが、今の一ローカル駅になってからはご無沙汰しています。子ども時代には散々お世話になりましたから、表敬訪問に行きたいところです。
「さのし」の駅名ホーロー板、さすがにCM部分は東武関係では無いようですね。
返信削除東上線ですと池袋東武百貨店になりましたが。
ところで7800のツートン当時、車体側面のドア灯が水雷型だった記憶ありましたがこれらのスナップにて間違いなかったこと判明しました。
後に他車と同じ一般的なものになり、乗務員室ドアも木製から金属製に交換され、室内でも吊り広告受けが8000冷房車と同じくアルミ製に変えられたりと細々手を入れて活躍してきましたが、最後まで鎧戸の日除けと木製サッシ残り「木の電車」代表格までになってしまいました。
12号線さん
返信削除ホーロー看板の広告、当時の伊勢崎線系には沿線に何も訴求するものがないですから、こうせざるを得なかったのでしょうね。尤も現在は佐野厄除大師になっているかも知れません(笑)。
ドア灯が水雷型だったのは恥ずかしながら今回初めて知りました。78系は一大勢力だっただけに、ヨロイ戸は数が多過ぎて手が回らなかったのでしょうね。
こんばんは。
返信削除伊勢崎線の支線にも遂にステンレス車が走り始め、8000系もさらに活躍の場を減らしています。
東武の保守的で硬いイメージも最近は少し変わってきたのかもしれません。
お写真の頃、車両の塗色といい、同じシリーズの車両がたくさん走っていたことといい、まさに“東武らしい東武”だったのではないでしょうか。
風旅記さん
削除支線は8000系の最後の牙城でしたが、いよいよ淘汰の波がやって来ましたね。この頃は73・78系顔と8000系顔が東武の象徴で、もう嫌というほど見てきましたが、現在は象徴と言えるスタイルが思い浮かびません。
そんな中、野田線にリバイバル塗装が全く普通に動いている、というのは久々にそそられるニュースですね。いつ行こうかと機を窺っています。
お返事ありがとうございました。
削除確かに「今の東武はこの車両」がなかなか思いつきませんね。
会社としてはスペーシアなのでしょうが、東武の“らしさ”は通勤車両にもあったように思います。8000系が今も現役で残り、10000系が廃車になるのを見ていますと、鉄道車両の維持管理は難しいものなのだろうと改めて思います。
もう流石に限界なのでしょうが、アナログな8000系の方が、人の手で直しながら維持しやすかったのかもしれないですね。