2023年2月26日

イモムシ君と梅雨空トラム その2

▲名古屋鉄道モ601 上芥見 1995-6

小学生時代の愛読書、学研「科学と学習」の付録で未だに忘れられないものがあります。
タイトルは失念したものの、鉄道史のこぼれ話を面白おかしく、かつコンパクトにまとめた小冊子でした。1872年の鉄道開通間もない頃の鉄道員の話、当時の乗客が履物を脱いで客車に乗り込んだ話、戦前の豪華特急「富士」に備えられたシャワー室とその利用券争奪戦の話・・・などは未だに憶えています。

そして、それらと共に鮮明に記憶に残るのが1930年代の「流線型時代」の話でした。
流線型と言えば「こだま型」や新幹線くらいしか知らない当時の管理人にとって、C53や55、流電こと52系やキハ43000のような強烈なデザインが戦前に存在した、という事実を知った時の衝撃は相当なものでした。

▲明智-顔戸  1995-6

1937年に誕生した名鉄3400系もそうした時代の産物。
同時代の流線型仲間、例えば阪急200形に「阪神の金魚鉢」こと71形、京阪1000形に山陽200形・・・何れもとうの昔に引退する中、2002年まで驚異的な長命を保ったのは特筆されるべきでしょう。

さて、引き続きイモムシ撮影を続けます。
田圃の真ん中で構えるのも露出がそろそろ限界、走行シーンを切り上げて明智に戻って来ました。ここで改めて間近で眺めます。
▲明智 1995-6

夕方のラッシュに差し掛かり、通学生らをフレームに入れてみます。
向かいにはもう1両の800系、モ812がいました。812は戦時中に登場した3500系(モ3502)が前身で、1981年に800系に改造。仲間のモ813・814は既に引退していましたから、3500系残党の最後の1両になりました。





▲いずれも明智 1995-6

これにて初日は終了。
内容の濃い1日が終わり、モ811に乗って犬山の安宿へ向かいました。


▲モ811車内 1995-6

明けて翌日は梅雨らしい空模様。
先ずは朝の小牧線に入るモ800からです。犬山にほど近い田県神社前で構えていると、モ811が7300系とコンビを組んでやって来ました。



▲いずれも田県神社前 1995-6

これだけで広見線へ戻り、次は3400系と組むモ812。
せっかくの異種混成、サイド気味に撮れないかと可児川を渡るシーンを狙ってみますが、この空模様では何ともうーむな画しかできません。

▲いずれも西可児-可児川 1995-6

やはり長居はできず、次の目的地・美濃町線へ向かうことにしました。
▲可児川 1995-6

一旦新岐阜へ戻り、新関行のモ601に乗車。
途中、日野橋までは徹明町からやって来た道産子ことモ870形と続行運転です。

▲いずれも日野橋 1995-6

上芥見で下車。
イモムシや800系と並んで、今回最大の目的がこの停留所風景でした。

▲上芥見 1995-6

クルマや自転車に胡散臭そうに見られながら、しばらく周りをうろうろします。
狭い生活道路の端っこを借りてゴロゴロと走る風情は、道路が舗装されこそすれ、1911年の開業当時とあまり変わっていないのではないでしょうか。


▲いずれも上芥見 1995-6

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
しつこくまだ続きます。
▲上芥見-白金 1995-6

2023年2月19日

イモムシ君と梅雨空トラム その1


▲名古屋鉄道モ605 上芥見 1995-6

戦前戦後の古豪が長く闊歩してきた名鉄本線系。
しかし、それも1977年の6000系登場で巨大な曲がり角に差し掛かり、以降は一気に淘汰が進んでいきました。同時に管理人の関心も600V線区へ移っていき、この当たりから「揖斐・谷汲詣で」が始まります。

そんな中でも戦前の名車・800系とイモムシこと3400系が動態保存車となり、未だに奮闘。しかも3400系がグリーン基調に復元され、更に両者の競演もありと聞けば、これは黙って見ている訳にはいきません。

1995年のよりによって梅雨の真っ盛り、急行「銀河」を降りてみるとこの時節に似つかわしくない快晴。広見線・善師野からしばらく歩いた場所で構えてみます。出自も毛色も違う2形式が仲良く手を繋いでやって来ました。




▲いずれも善師野-西可児 1995-6

人家が見当たらないこの区間はアングルの自由が利き、しばらく周辺を徘徊。
最後まで残った2両の800系は何れもうーむな高運転台車ですが、贅沢は言えません。うちモ811(旧モ802)は生粋の800系で、一度片運化されたのを再度両運に戻しています。もう1両の812は3500系を改造した編入組でした。

主力の6000系らも押さえておきます。
旧型車を追いやった仇ながら、今となっては撮っておいて正解でした。





▲いずれも善師野-西可児 1995-6

犬山まで戻った後はこちらへ、これも見ておきたい風景でした。
大型電車が路面を闊歩する姿はいつ見ても痛快ですが、ここでは「伸し歩く」というよりはクルマに遠慮しながら静々と近づいて来る印象です。
▲新鵜沼-鵜沼山遊園 1995-6

ミュージックホーンを鳴らしながら最新鋭もやって来ました。背後から観光バスが迫っていますね。





▲いずれも新鵜沼-犬山遊園 1995-6

クルマを除けながら構えるのに疲れた頃、再び広見線へ転戦。
午後から広見線末端区間に入る3400系を狙って、顔戸近くの畦道を歩きながらノンビリと撮り歩きました。


▲明智-顔戸 1995-6

朝方は快晴でしたがそこは梅雨時、そう長くは続きません。
段々と露出が稼げなくなり、流したりモノクロに切り替えたりしてやり過ごします。





▲いずれも明智-顔戸 1995-6

・・・とここで枚数を稼ぎました。次回に続きます。

▲北一色 1995-6

2023年2月14日

本日のインスタ投稿から(10)

▲小野田線クモハ42006 雀田 1992-12

「本山支線」のクモハ42は営業用としては最後の旧型国電。
宇部・小野田線へは1980年から何度か出向く機会がありましたが、運が良いのか悪いのか、本山支線にいたのはクモハ40ばかり。国鉄時代はついに会うことは叶いませんでした。

時は移ってJR化後の92年、九州行の道すがらに何度目かの正直。
既に2両のクモハ42以外は引退していましたから今度はハズレようもなく、警戒色が消された美しいご尊顔を拝すことができました。


▲いずれも雀田-浜河内 1992-12

沿線にこれといった見所はなく、2.3kmの車窓はあっという間に終わってしまいます。
平凡な走行シーンを押さえて雀田に戻ってみると、既に昼寝モードに突入していました。

▲いずれも雀田 1992-12

初めて宇部・小野田線を訪問したのは1980年秋。この日のクモハ42は終日本線の3連に入っていました。
▲宇部新川 1980-9



▲宇部岬 1980-6

現在の小野田線は105系と共にこの123系が活躍中。
クモハ42を追いやった仇とは言え、前歴がクモニのせいかこの国電顔は憎めません。新性能車で初の単行用ということも特筆できますね。
▲小野田 1992-12

国鉄時代の最後の訪問は、鉄研仲間と徒党を組んで九州は高千穂への合宿に向かう折。この年は珍しく大雪に見舞われました。登場したばかりの105系が試運転を開始し、旧型の命脈も尽きようとしていました。




▲いずれも深溝-周防佐山 1981-2

2023年2月5日

デハ250・6000登場の頃

▲上信電鉄クハニ14+デハ23 高崎 1981-9

今でこそデキと「ド派手な広告電車」が象徴となった上信電鉄も、1970年代までは薄汚れたローズピンクの鋼体化車が闊歩する地味な路線で、雑誌に取り上げられることも殆どありませんでした。そんな上信線も1976年に1000形、次いで81年に250形と6000形が登場するとイメージを一新、徐々にカラフル路線へと変貌していきます。

こちらは新製間もないデハ250形。
性能的に特に斬新という訳ではありませんが、アイボリー地に幕板部オレンジ・腰板部茶色・更にそれぞれに縁取りと、派手さが1000形よりパワーアップしています。藍色のこれまた派手なバンパーは、増解結の邪魔になったらしく後に取り外されました。




同時期に登場した6000形。
こちらも派手な装束ながら幕板部がブルー、腰板部がオレンジと趣を異にしています。250形同様、特に革新的な性能がある訳ではありませんが、上信初の冷房車になりました。しかし1984年冬、登場から僅か3年余りで正面衝突事故を起こして大破、ATS全線導入のきっかけを作りました。

▲いずれも高崎 1981-8

新形式の本格デビュー後も、辛うじて区間運転に残っていた鋼体化車。
デハ23のルーツは電化開業時の自社発注車で、更新時期が1960年と新しいせいかシル・ヘッダーなしの近代的なスタイルです。
デハ23の車内。
懐かしいチャンネルが付いたままのこいつは、一体何に使われていたのでしょうか。正面だけを切り取って貼り付けたように見えますが、まさか映像が出る訳ではないでしょうね。

▲いずれも高崎 1981-8

デハニ30形も電化時の自社発注車。こちらは予備車として91年まで在籍しました。

クハニ14も自社発注車で、こちらは元デハ。車体裾が長く間延びした印象です。


クハ22は豊川鉄道モハ20形をルーツとする買収国電。
鋼体化の際に車体を延長、収容力がアップしたお蔭でデハ10とコンビを組みラッシュ対応に重宝されました。


元西武451系の100形。
1980年から4編成が登場するも、うち1編成は上記6000形との衝突事故に遭遇し、翌年廃車になってしまいました。


▲いずれも高崎 1981-8

電化開業時の自社発注車ながら、更新時期が1960年と最も新しいデハ22。
両運が幸いし、81年の戦列離脱後も高崎の入換用に残りました。背後の「カッパピア」は子会社が運営していた、流れるプールがウリの遊園地でした。
デハ22と組んで入換えに励むED316。
ピンク地に白帯+真ん中に社紋とありゃーな装束に変わっていました。

▲いずれも高崎 1981-8

その後は暫く国鉄線を観察。
高崎と言えば、上信越線の優等列車に八高線ディーゼル、そして貨物列車が次々に往来する、1日中いても飽きない駅でした。2枚目のEF58は工場入場車の回送でしょうか。

▲いずれも高崎 1981-8

時あたかも社運を賭けた「近代化事業」が始まり、乗客減少に歯止めをかけるべく一歩を踏み出した頃でした。250形と6000形デビューもその一環で、信号所新設や駅の改良、線形や枕木の改善と立て続けに着手、急行や準急を運転しスピードアップも図り・・・とまさに総力を挙げての取組みだったのでしょう。

▲高崎 1981-8