2023年6月13日

蝉時雨の蒲原鉄道 その1


 ▲蒲原鉄道モハ31・モハ12 七谷 1981-9

1981年夏のこと、石川県羽咋市で行われた鉄研合宿を目指し、血迷った挙句に急行「能登」のA寝台を奮発。北陸鉄道を皮切りに、真夏の暑さを満喫しながら北陸私鉄を撮って回り、全身汗まみれになりながら夕刻の羽咋に到着。無事に合宿に合流したのでした。

これまでの顛末についてはこちらをどうぞ(切符画像もあります)。

1981年北陸行 →→→ その1(北鉄石川線) / その2(北鉄小松線) /
  
しかし、似合わぬA寝台にショック症状が出たのか、「能登」が金沢に着く頃から持病のゼンソクが悪さを始めます。

乱痴気騒ぎの合宿が終わる頃には自力歩行も覚束ない体たらくに・・・恐らくはホコリにまみれた四畳半下宿生活、そこでの不摂生の副作用がここに来て一気に暴発してしまったのでしょう。


▲ぜいぜい言いながらシッカリ撮っています 金沢運転所 1981-9

・・・という訳で、合宿が解散するや、友人の肩を借りながら這う這うの体で金沢の総合病院へ。点滴だの吸入だのを受けることになりました。
保険証を持っていなかったので結構な額の費用を払い、予定していた鉄研同期メンバーとの新潟交通行をキャンセル、そのまま金沢駅前に投宿です。

少し体調が落ち着いたところで大人しく帰京して養生・・・すれば良いものを、新潟での「遅れ」を取り戻すべく、途中から蒲原鉄道で合流することになります。

ゼンソクというのは不思議な病で、発作がなければウソのようにシャキンと戻ってしまいますから(このせいで何度も仮病を疑われる破目に)、この後やってくる強烈な反作用も考えずに、「雷鳥」に飛び乗り一路新潟を目指しました。


▲冬鳥越-七谷 1981-9

さて前置きが長くなりましたが、何だかんだで無事にメンバーと合流。
この日のメインは加茂線の山里風景ですが、先ずは村松の車庫から覗くことにしました。


▲村松 1981-9

1930年の全線開業時に登場したモハ11形。
ワンマン改造されたモハ12が加茂線廃止時まで運用されたのに比べ、11はイベント時に駆り出される程度で、ほとんど車庫の片隅で昼寝を決め込む日々でした。

3枚目のモハ51はモハ11形の兄弟車です。
戦後モハ41がデビューした際に機器類を譲り、代わりに開業時メンバー・モハ1から機器を貰うという「三角トレード」を経て51に改番。何だかややこしいです。




モハ71は各地に仲間がいた元武蔵野鉄道デハ320形。
頑丈で使い勝手が良かったのか、6両が嫁いだ近江鉄道を始め総武流山電鉄・新潟交通各社で長く活躍しました。


越後交通長岡線からやって来たモハ81。
京浜急行創業期に登場した1形の機器類に新製車体を合体させた代物で、どこか垢抜けない鈍重な印象です。五泉-村松の3連に出動する以外は、終日昼寝をする毎日でした。




モハ91はモハ81・クハ10とトリオを組んで五泉-村松の3連で活躍。
こちらは名鉄の木造車を鋼体化させた、元山形交通モハ106でした。朝の3連だけの運用と思いきや、廃線間際に訪問した加茂線で見掛けた時はビックリしました。


WHコピーの日車製ED1。
この頃はまだ細々とながら貨物列車がありました。スノープラウ取付用ステーもまだ付いておらず、すっきりとした印象です。
▲いずれも村松 1981-9

さて、車庫を辞すると続いてメインの加茂線へ転戦。
先ずは最も加茂線らしい、山里の風景が満喫できる高松で下車です。

▲いずれも高松 1981-9

鉄研一行は畦道に整列、高松の加茂方でしばらく構えました。
山と田圃だけの「日本の原風景」を体現したようなロケーションながら、足元が草ボウボウなのはちょっとうーむです。



▲いずれも高松-土倉 1981-9

・・・とここで枚数を稼ぎました。次回に続きます。
▲冬鳥越-七谷 1981-9

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