2023年6月21日

蝉時雨の蒲原鉄道 その2

 ▲蒲原鉄道モハ31 高松 1981-9

初めてデンシャにカメラを向けてから早50年。
撮り溜めたフィルムの山を全部データ化するという、気が遠くなるような作業を思い立ってからというもの、未着手分をチラ見しては溜息をつくことが多くなりました。

・・・であればとっとと止めてしまえば良いものを、それまでボツ作品として見向きもしなかったコマが画像ソフトで蘇生するのを見ると、なかなか踏ん切りがつきません。
▲全線健在の頃はバラエティ豊かだった



▲加茂線廃止の頃。西村松も朝だけ有人だったようだ

一方、写真と共に長く勤しんできたのは切符蒐集。
こちらも未整理のやつが無造作に袋にぶち込まれたままで、果たして管理人が生きているうちに目的完遂といくか、こちらも甚だ自信がありません。

そもそも、写真や切符の体系的な整理整頓を見事成し遂げたとしても、程なく自分自身が入滅してしまえば意味もなし、膨大な粗大ゴミだけが残ります。
まあ鉄道に限らず、こうした煩悩は写真や何らかの蒐集を嗜む者にとって、共通の悩みなのでしょう。
▲加茂線廃止・全線廃止記念。記念回数券のデザインがお気に入り

さて、引き続き高松付近を徘徊します。この日の加茂線は、2ドアのモハ31と管理人一押しのモハ12が行ったり来たりしていました。

小高い場所が目についたので、登ってみます。
足回りの草もかわせるし、程良い按配の「小俯瞰」アングルになりました。蝉の大合唱の中、モハ12がコトコトとやって来ました。



▲いずれも高松-土倉 1981-9

続いては交換駅の七谷へ。
1980年に大蒲原が無人になって以降、村松・東加茂と共に数少ない中間有人駅です。

先ず加茂行のモハ31が到着、ここでのんびりと村松行を待ちます。タブレットを手にした駅員さんも暑いのでしょう、ヤレヤレといった体で座り込んでいました。




待つことしばし、村松行のモハ12がギギイと停まりました。

村松行が発車。
窓から顔を出しているこの子らも、いいオッサン・オバハンになっていることでしょう。

▲いずれも七谷 1981-9

振り返ったカット。
線路と境目のない未舗装道路が泣かせます。モハ12が豆粒のように小さくなるまでシャッターを押し続けました。


▲冬鳥越-七谷 1981-9

村松方へ少し歩きます。
ここでも蝉の大合唱と咽返るような草熱の中、しばらく粘りました。





▲いずれも冬鳥越-七谷 1981-9

今度は七谷の加茂方から。
この地の風物詩、ハサギが其処彼処に立っていました。
▲いずれも七谷-狭口 1981-9

これにてタイムアップ、七谷に舞い戻って来ました。
1.5~2時間に1本程度の列車では本数は稼げませんが、存分に山里を満喫し、心地良い疲れと共にモハ12に乗り込みます。
▲七谷 1981-9

薄暮の加茂に到着。
北陸鉄道に端を発した長い貧乏旅もこれで終了です。予期せぬゼンソクの暴走でドタキャンしてしまった新潟交通以外は全てのスケジュールを消化、あとは信越線で帰るだけになりました。
▲加茂 1981-8

さて満足顔で帰京したは良いものの、やはりこれまでの不摂生に加え今回のご乱行が祟ったのか、四畳半下宿に戻るや、以前とは桁違いのゼンソク暴走に見舞われる破目に。

流石に今度ばかりは懲りて、列車で半日かかる総合病院に厄介にならざるを得なくなりました。呼吸器専門医がまだ少なかった時代とはいえ、市販薬で誤魔化し続けた長年の所業をきつく叱咤されることになりましたが、これを機に本格的に養生を開始。

お蔭様で、フィルムが山のようになるまで生き長らえています。

▲七谷 1981-8

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