2023年7月27日

四季の谷汲線・盛夏(3)~510への挽歌

▲名古屋鉄道モ513+514 長瀬-谷汲 2001-7

廃線を間近に控えた2001年夏、谷汲線にモ510形が入るとの情報。
かつて岐阜市内への直通急行で鳴らした彼らも、急行廃止後は行楽シーズンやイベント列車でたまに出動する程度、晩年は出番もめっきり少なくなっていました。

当時はうなされたような月イチペースの「谷汲詣で」の真っ只中で、もちろんこの時も即断。前日深夜、名古屋勤務だった友人を「明朝8時に名古屋駅まで来い」と強引に誘い、朝一番の「のぞみ」に飛び乗りました。

さて、510がお出ましになるまで先ずは単行電車で予行練習です。
▲上:長瀬-谷汲 下:赤石-長瀬 いずれも2001-7

この日は岐阜駅前でレンタカーを奮発。
毎時1本の列車という制約がありませんから、水を得たナントカのようにあちこち物色して回りました。結局、もう何回立ったか分からないお馴染みの場所で1本目を待ちます。

待つこと暫し、谷汲からの折り返し列車がやって来ました。せっかくですから、大好きな前面をアップで狙います。
▲いずれも赤石-長瀬 2001-1

続いてこれも勝手知ったるポイントで。
メイン道路からお手軽に狙えるにも拘らず、四季折々の風景が満喫できる場所が多いというのも、当線の魅力の一つでした。

▲いずれも長瀬-谷汲 2001-7




▲いずれも北野畑-赤石 2001-7

梅雨の明け切れない時期ながら、まるで晩夏のような風と空でした。
▲長瀬-谷汲 2001-7

これで510はお仕舞いですが、続いてはモ750形2連の登場。
ワンマン表示が消える上に、2連を拝めるのは谷汲さん命日くらいですから、畦道でそのまま粘ります。

本日はさすがにこの人出。暑い中ご苦労さんです。



さて、本日の締めは折り返しの黒野行です。
諸処不細工に改造されている750形ですが、真夏の緑に映えました。
▲いずれも長瀬-谷汲 2001-7

慌しい日帰り弾丸ツアーながら、夏の田園風景を行く510と750の2連という、この日の課題を全て修了。名古屋駅まで同行氏に見送ってもらい、満足顔で帰途に就きました。

数え切れないくらい通い詰めた谷汲線もあと2ヶ月。
ここを走る510の雄姿を見るのは、これが最後になるでしょう。

廃止当日やその直前、撮影者だらけの殺伐とした雰囲気に浸る趣味はなく、管理人の谷汲詣でもいよいよカウントダウンに入りました。
▲更地 2001-7

2023年7月17日

曇り空の晴れ姿

▲EF5861 黒磯 1980-10

1980年秋、ネットもないこの時代にどこから情報を仕入れたのか、ロイヤルエンジンことEF5861+1号編成のお召し列車が走ると聞きつけて東北線へ。

東大宮-蓮田などメジャーな撮影地はどこも三脚の林立でしょうから、小中学生時代によく構えた地点で安直に待ち受けることにしました。生憎のドンヨリ雨模様、先ずは先行の「はつかり」で練習です。






「ヒガハス(こういう呼び方好きではありませんが)」などと違い、ここは同業者もまばらでした。しかし流石はお召し列車、其処彼処に警察官が立っています。

といっても現在のような殺伐とした緊張感はあまりなく、カメラバッグの検分もありましたがフタをさっと開けただけで、あちらも形だけ瞥見するやさっさと立ち去ってしまいました。

▲いずれも野木-間々田 1980-10

間近で1号編成を見るのがこの時の優先課題でしたから、次は迷わず終点の黒磯へ。当然ながらここでも警官が等間隔に立ち、辺りに睨みを利かせています。

着線ホームは流石に立入り不可、しかし隣のホームを行ったり来たりしながらカメラを構えても追い払われることはありませんでした。待つこと暫し、先ほどの編成が静々と入線して来ました。
▲黒磯 1980-10

到着すると直ぐに機関車の切り離しです。

▲いずれも黒磯 1980-10

本日の主目的はこちらの客車。
61号機は臨時や団体列車で見る機会が結構ありましたが、彼らに会う機会はこの日しかありません。

20系をベースに1960年に登場した御料車は3代目1号を名乗っていました。
窓枠や上下のラインには本物の金箔が貼ってあるそうですが、この位置まで何の問題もなく近付くことができたのは今もって驚きです。菊の紋章は既に外されていました。





御料車の脇を固めるのは供奉(ぐぶ)車。
両端にいる460形(460・461)も御料車の前後にいる330形(330)・340形(340)も、諸処改造されてはいるものの1931-32年に登場したベテランです。460は電源車に改造されています。



▲いずれも黒磯 1980-10

黒磯以北ではまだまだ多数派だった旧型客車も押さえておきます。




▲いずれも黒磯 1980-10

61号機が転線、上野方に付けられます。これであとは戻るだけになりました。

▲いずれも黒磯 1980-10

さてこの1号編成、未だ現存するも整備はされておらず、お召し列車任務もE655系に取って代わられていますから、もう走ることはないのでしょう。今後の去就が気になりますが、特に供奉車は保存例がなく、一般用に格下げされるか事業用に改造されるかでしたから、まとめて博物館入りを期待したいところです。

こちらは回送列車発車前、最後に61号機と記念写真。
任務を無事に遂行したお蔭か、駅員さんにも61号機にも安堵の表情が見えました。


▲黒磯 1980-10

2023年7月8日

ホワイトアウト・ロードの旅

▲深名線キハ22303 名寄 1982-3

貧乏旅に奔走した学生時代、ワイド周遊券と夜行列車は必須アイテムでした。
この二つをフル活用して、少しでも安くかつ少しでも長期間粘り、いかに多くの収穫物を得るか・・・これらを満たす旅程を組むのも楽しみの一つでした。

中でも北海道は周遊券と夜行列車を最大限に活用でき、まさに貧乏学生の味方。
冬季は学割に加えて更に閑散期割引も利きますから、これは利用しないテはありません。
▲客レ王国だった北海道 札幌 1982-3 

1982年の早春、この時は在籍していた大学鉄研の合宿地に向かう折、メンバーと集合離散を繰り返しながら、1日数本しかない超ローカル線をメインにあちこち乗り回していました。

その道すがら、深名線の初乗車は深川発15:48。
まだ陽は高いものの、1日4本しかない名寄行の最終に接続する列車でした。

▲いずれも深川 1982-3

深名線沿線は有数の豪雪地帯で、進むにつれぐんぐん雪深くなっていきます。
3メートル近い壁のような積雪は吸音効果があるのでしょう、時折エンジンが小さく唸る以外は不気味なほどの静寂が続きました。

雪以外は何も見えない単調な車窓が続いたかと思うと、交換駅の鷹泊に停車。
しかし10分経ち、20分、30分経っても動く気配がありません。駅員さんが慌しく走り回ったり運転士と何やら話し込んだり・・・どうやら対向の深川行が遅れているようでした。



▲いずれも鷹泊 1982-3

ようやく深川行が到着、せわしくタブレットを交換して直ぐに発車です。
辺りは薄暗くなってくるし、このままストップしたらどうしようという我々の不安をよそに、こちらも結局1時間近く遅れて発車。これで名寄行に乗り継げなかったら、朱鞠内で足止めを食うことになってしまいます。




▲いずれも鷹泊 1982-3

豪雪地帯の本丸、幌加内に着く頃にはすっかり暗くなっていました。
列車は時折スピードを上げながら、何事もなかったかのように恬淡と走り続けます。

少なくとも朱鞠内までは辿り着けるでしょう。
しかし沿線に泊まれそうなところはないし、いざとなったら駅員さんに頼み込んで「駅寝」を決め込むしかない、まさか追い出されることはないだろう・・・と覚悟を決めました。


▲幌加内 1982-3

何とか無事に終点・朱鞠内に到着。
しかし、対向ホームで待っている筈の名寄行最終列車がいません。

一人勤務の駅長さんに聞いてみると、「あちらも遅れている、しばらく来ないから待合室へどうぞ」との事。全身脱力状態になりながら、これまでの顛末を矢継ぎ早に話すと「名寄行は必ず接続するから置いてきぼりを食うことはない、それに雪で運休になることは北海道では滅多にないですよ」、と笑いながら答えてくれました。

待合室のストーブに手をかざし、入場券を所望したり昼飯のパンの残りを頬張ったり、人通りのと途絶えた駅前通りを徘徊したりするうち、漸く生気を取り戻してきました。
▲朱鞠内 1982-3

朱鞠内を発車した最終列車は、漆黒の雪原を音もなく走り続けます。
全ての不安が氷解し、駅長さんとのやり取りを安堵に満ちた面持ちで反芻しているうち、20時過ぎ、名寄の0番線ホームに着きました。

駅前通りは殆どがシャッターを下ろしてしまい、どうやって空腹を満たしたのか記憶にありませんが、恐らく閉店間際のよろず屋で何かしら仕入れたのでしょう。

この日宿を取ったのは、駅からほど近いビジネスホテル。
ホテルとは名ばかりの、二段ベッドが並ぶ簡易宿舎の趣でしたが、1泊2,500円ですから文句は言えませんでした。



▲いずれも名寄 1982-3

翌日は美幸線の一番列車を皮切りに、ローカル線詣でを再開。
北の鉄路は強く、最後まで雪で運休することはありませんでした。




▲いずれも美深 1982-3