▲日立電鉄モハ14 大橋-川中子 1980-11
さて、大甕で散々長居した後は漸く沿線へ。
路線長の割にメンバーは多いですから、電車達は大甕以外にも両端駅に分散配置されていましたが、先ずは鮎川からです。
小田急モハ1形一派がここにもいました。
側面ドアが見てビックリの1007は、これ以外は小田急時代のイメージを最も良く残しています。相鉄へ移った後に荷電になり、ヘタな更新を受けてこなかったのが幸いしたのでしょう。
▲鮎川 1980-11
鮎川駅の直ぐ横は常磐線。
当時は当たり前すぎてロクに記録しなかった「ひたち」がすっ飛ばして行きました。
▲いずれも鮎川 1980-11
鮎川を辞した後は車庫のある久慈浜で下車です。
▲久慈浜 1980-11
手狭なこの車庫には1両も見当たらず、元院電のクハ141とデワ1のダルマさんが倉庫として余生を過ごしているのみ。このクハ141の相棒だったデハ101が大井工場へ里帰りし、ナデ6141として復元されました。
▲いずれも久慈浜 1980-11
一通り押さえて、次は風景が開けた大橋で降りてみました。
▲大橋 1980-11
午後の単行当番は顔つきの違うモハ14と16。
田圃の真ん中に陣取ってしばらく粘ってみます。
続いてはもう一つの終点・常北太田へ。
こちらも狭い構内に電車たちがひしめき合い、静鉄からお輿入れしたばかりの100形もいました。これだけの両数が果たして必要だったのか、今更ながら不思議です。
▲常北太田 1980-11
製造年ではモハ1300形と共に最古参組(1930年)のモハ51。
ルーツは加太電気鉄道(→南海電鉄)デニホ51という代物で、戦後弘南鉄道に移った後、1962年にこちらへ嫁いできました。この頃は完全に休車だったようで、かなりくたびれた状態。その後82年に廃車になっています。
モハ1000形の荷電改造組、ここにもいました。
この頃単行用には定番のモハ9形・11形や13形、朝ラッシュ時には3連・4連の固定編成、そして静鉄車もいましたから、果たして出番はどれほどあったのでしょうか。
宇部鉄道モハ20形を出自とするモハ1300形。
この当時1両だけ残っていた1301も廃車になると思いきや、ワンマン改造されて90年代まで生き残りました。
紫+クリームという凄い装束の3連(モハ1003+モハ1002+クハ2501)がいました。
静鉄車に合わせたらしいですが、この後間もなく元に戻されます。クハ2501の前身が東横電鉄の流線型キハ1形だったとは、ちょっと信じられません。
▲いずれも常北太田 1980-11
これにて無事に終了、常北太田と対峙している水郡線・常陸太田から帰途に就きます。ありふれたこういう編成や駅構内の風景にも、もう少し眼を向けておくべきでした。
▲常陸太田 1980-11
この頃、大甕のホームや常北太田の待合室には昭和レトロ感満載(昭和時代ですから当然かもですが)の売店が居を構えていたり、ローカルムード溢れる駅舎(大沼など)もあちこちに健在でした。なのに記録はゼロ・・・とまたしてもフィルムを見返して後悔する破目になりました。
デンシャだけで撮りたい対象が山のようにあった時代ですから、当時の鉄道オタクの志向として自然といえば自然かも知れません。
しかし、時折鉄道ファンでない地元民の撮った同時代のスナップなどを見ると、その度に駅構内や駅前通りをついででも良いから何故1枚も残さなかったのかと、やはり思わずにはいられませんでした。
▲連絡券も多彩な顔触れだった
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